終戦日(しゅうせんび)

 「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」。油蝉がジージー喧しく鳴き騒ぐ中で、ラジオのガーガーシャーシャーという雑音を通して切れ切れに伝わってくる大元帥陛下の声。初めて現人神(あらひとがみ)の声を聞いた国民は、ただ涙を流すばかりで、頭を垂れていた。長い苦しい戦争は終った。当時、私は国民学校二年生だった。千葉の疎開先の大百姓の庭先で、起立しうなだれる大人たちのただならぬ様子に気圧され、自身も姿勢を正して玉音放送に耳傾けながら、その実、今日は何が食べられるのだろうと、そればかりを気にしていた。

 どうにも腹が減って仕方がない毎日だった。本来はそんなみじめな境遇に陥るはずはなかったのである。昭和二十年五月二十九日の横浜大空襲で家が全焼し、半身に大火傷を負った父を見かねて、鷹之台ゴルフ場のオーナー理事長だった伯父が「ここなら爆撃もないし、のんびりしているから」と招いてくれ、遅きに失する疎開となった。

 伯父は大正時代にアメリカ留学したのだが、勉学よりもゴルフに親しみ、帰国して父親にせがんでゴルフ場経営に乗り出した。昭和の初めに出来上がったゴルフ場は、折りからの世界恐慌の余波で不景気にあえぐ千葉の田舎の雇用情勢にいささかなりとも貢献する存在となり、近隣住民から感謝されていた。我々一家が身を寄せた家も、鷹之台ゴルフ場に土地を寄託した地主百姓で、一族郎党がゴルフ場の保守要員やキャディなどに雇われ、貴重な現金収入を有難がっていた一族だった。近隣の農家の人たちもゴルフ場の恩恵を大なり小なり受けていたのであった。

 しかしそのゴルフ場は、「敵性運動競技」などもっての外と、大東亜戦争開始と同時に強制的に閉鎖されてしまった。敗戦後はもうめちゃくちゃで、食糧増産の掛け声と共に開拓団が入り、同時にどこからともなくわけの分からない人たちが入り込んで、勝手に住み着き、芝生をはがしてそれぞれ何か作り始めた。近隣の農家の人たちも、昔は昔、今更、閉鎖したゴルフ場のオーナーやその親戚など構ってはいられないという空気になった。

 そうなると何ら生産力を備えていない青白きインテリ一家は悲惨である。まず食べるものが無い。一家総出で慣れぬ百姓仕事に精出したが、収穫はずっと先のことである。急場をしのぐために食糧を譲って欲しいと近隣に頭を下げて回るのだが、なかなか売ってもらえない。物々交換なら米でも芋でも手に入るが、焼け出されではそれも思うにまかせない。

 ある日、母に従って買い出しに出掛けた。女学校に通う姉と六年生の兄は勉強が忙しいとか言って付いて行かない。妹と弟はまだ幼くて足手まといになるばかりだから留守番。というわけで、買い出しのお供はいつも私と決まっていた。その日も何軒かで断られた。農家は家と家が離れているから、四、五軒回るのにもずいぶんの距離を歩く。空のリュックさえひどく重く感じられた。

 そろそろ陽が傾き始めた頃合い、庭先にサツマイモを山と積んだ農家にたどりついた。その家の主とおぼしき男におずおずと近づいた母は丁寧に頭を下げ、そのサツマイモを少し頒けていただきたいと頼んだ。するとその親父は横を向いたまま、「そりゃあ、豚にやるだ。ソケーモン(疎開者)にくれてやるもんなんか、無え」とにべもない。そしてくるりとこちらを向くと、「それとも何か、いいもんでも持って来たか」と下卑た笑いを浮かべた。母は黙って頭を下げると、私の手を引いて足早にその家を離れた。街道をうつむきがちにとっととっとと歩くもんぺ姿の母は、私の手をきつく握りしめた。とても痛かった。

 「イシ(千葉方言で、お前の意)、喰いてえか。喰いてえべ」。真っ黒に日焼けし、私と同学年なのに首一つ大きい悪たれが、ドカ弁の蓋を開けて見せた。一里ほど離れた小学校へ近隣の子供たちとそろって通学する途中の田舎道である。この近辺では子供も大人用の弁当箱に銀シャリを詰めて登校する。その子のその日の弁当箱には、なんと焼いた餅がびっしり並んでいた。醤油の焦げた匂いが強烈に鼻をくすぐる。情けないことだが、思わず「うん」とうなづいてしまった。と、悪たれは「そうか、喰いてえか、食いたきゃくれてやんべー」、言うなり弁当箱の中の餅を一切れ掴むと、目の前の田圃の真ん中にぽーんと放り投げ、「ほうれ、食え食えっー」。

 頭に血が上った私は前後の見境もなく、ガキ大将にむしゃぶりついていったが、もちろん完膚なきまでにぼこぼこにされてしまった。

 皆が大声ではやしながら散ってしまった後、鼻血を袖で拭きながら、道端に散らばったカバンの中身をのろのろ拾い集めた。母が作ってくれた弁当は無残にも蓋と身がばらばらになり、中身がこぼれ出ていた。水で戻した干し大根と乾燥芋を細かく刻んだものと、豆粕が八割方を占め、申訳に米粒がぱらぱらと入っている御飯。乾燥芋のアクで全体がどす黒くなり、独特のむっとする臭いがする。この弁当を毎日、級友の目を逃れて両腕で隠しながら食べた。時にはそれも許してもらえずに、弁当箱は寄ってたかって取り上げられ、教室中にぐるぐる回される。「臭っせー」「豚のエサ食ってるぞー」。悪ガキにとっては昼食時のエンターテイメントの恰好の材料であった。

 思い出したくないのについ思い出してしまうような経験をしたけれど、世の中にはもっともっと悲惨な目に遭った同世代がたくさんいる。その頃、上野駅の地下道にたむろしていた子供たちは一体どうなったのだろう。彼等は皆、東京大空襲で親と死に別れ、生き別れした浮浪児と呼ばれる少年少女だった。私は時折親に連れられ、大和田という田舎駅から京成電車で上野へ出て京浜東北線に乗り換え、懐しい横浜へ行ったのだが、その行き帰りに上野駅ではしばしば「浮浪児狩り」や「パンパン狩り」に出くわした。時には銃を構えた進駐軍兵士と共にタンクを背負った恐そうな男が、乗降客を整列させてはDDTを浴びせかける。そんなのに巻き込まれたこともあった。

 あの戦争の直接的被害者は、もちろん、戦場に駆り出され、あたら命を失ったり悲惨な目に遭ったりした兵士たちである。しかしあの戦争は、このように「銃後」の国民にも深い傷跡を残した。そして、何よりいけないことは、日本人にモラルの喪失をもたらしたことである。

 あの戦争によって、ずる賢く立ち回る者が勝つ、腕力の強い者、金力のある奴が勝つという観念を日本人に植え付けてしまった。強い者がよこしまな行いをしても、見て見ぬ振りをする。時たま勇気のある人間がそれに立ち向かっても、誰も助けようとしない。こんな情けない国民性を生ぜせしめてしまった。これは高度成長時代という銃を札束に変えただけの時代にも、バブル時代にも、平成の今日にも続いている。

 さらに恐ろしいのは、今や政官財界の一線に立つ人たちの多くが戦争を知らないものだから、「あの戦争はやむにやまれぬものだった」といったバカなことをしたり顔で言う人間が出てきたことである。それを支持する若者がかなりの割合になるという。これには鳥肌が立つ。

 確かにあの戦争に至るまでのいきさつにはいろいろある。日本側にも言い分はある。だからと言って、国民を犠牲にする戦争に走る軍部と為政者の短絡的行動は許されるものではない。中国政府の傍を考えないごり押しとも思える姿勢や、北方四島を占領したまま傍若無人な振舞いのロシア政府のやり口を見せつけられると、日本はもっと軍事大国となるべく国家方針を変えるべきだという考え方に賛成したくなる気持も分かる。しかし、それでは元の木阿弥になるということを、じっくり噛みしめなければならないと思う。こういうことを考えるよすがとして「終戦記念日」は良い機会なのだが、最近はどうも型どおりの、通り一遍の行事に堕落してしまったように感じる。

 終戦日、正しくは終戦記念日だが、俳句では長過ぎることからもっぱら「終戦日」「終戦忌」が使われている。これも本当は終戦ではなく「敗戦」と言うべきなのだが、敗戦という言葉が主として左翼系の人たちに使われたためであろうか、公式には終戦記念日とされている。また、「八月十五日」とか「八・一五(ハチテンイチゴ)」と日付を詠む場合もある。日付で詠むと「この日」という印象が一層強まる感じがする。

 俳句を詠むような人は穏やかな心の持主が多いせいか、あるいは、社会の動きを真っ正面から取り上げるのは俳句にそぐわないと考えるせいか、歳時記の「終戦日」の例句を見る限り、あまり過激なものや深刻なものはない。身辺に引き付けて淡々と詠んでいるものがほとんどである。しかもそれらは相当年齢を重ねた作者のものばかりで、戦後生れの人たちに終戦日を詠んだ佳句はほとんど見当らない。宜なる哉である。戦争に負けてからもう七十年近くたっているのだ。この季語が半ば死語と化しつつあるのも時代の流れというものかもしれない。しかし、決して死語にしてはいけないと、この日が廻って来るたびに強く思うのである。


  八月十五日春画上半の映画ビラ      中村草田男
  終戦日妻子入れむと風呂洗ふ       秋元不死男
  堪ふることいまは暑のみや終戦日     及川  貞
  暮るるまで蝉鳴き通す終戦日       下村ひろし
  ギター弾くも聴くも店員終戦日      高島  茂
  少女の胸と揺れをともにし敗戦日     古沢 太穂
  湾に浮く朝の黒富士敗戦忌        益田  清
  片爪の蟹這ふ八月十五日         木内 彰志
  終戦忌切れ電球を透かし見る       川村三千夫
  この暑さ記憶の底の終戦日        山本 静子

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