秋冷(しゅうれい)

 「秋冷」は「冷やか」という古くからある季語の傍題で、「ひやひや」「ひいやり」「朝冷」「雨冷」などとも使われる。芭蕉に『ひやひやと壁をふまへて昼寝かな』という句があるように、ひんやりした感じを心地よく思う、初秋の頃の季語とされていた時期があったようだが、今日では初秋、仲秋問わず用いられている。特に音読みで「シュウレイ」と言えば、かちっと締まった感じが強まり、いよいよ秋も深まった晩秋に用いても違和感の無い季語である。ただし秋冷はあくまでも仲秋に用いるのが最もふさわしいように思う。

 「冷やか」とか「ひやひや」と言うと、手足、背中あるいは皮膚に感じる冷気であり、これに対して「秋冷」と言うと、空気がちょっぴり冷えて来たことを全身で受ける感じ、もしくは秋を意識するというニュアンスである。いろいろな歳時記に出ている例句を見ても、「冷やか」の句と「秋冷」の句とはちょっと趣を異にするような気がする。こうしたことを考えると、「秋冷」は「冷やか」の傍題として置くよりは、独立した季語として扱った方がすっきりするようにも思える。

 とにかく、秋になって朝晩や雨の日などに何となく冷えを感じる、その気分を「冷やか」とか「秋冷」と言うのである。「涼し」というのは暑さの中に求めた涼しさであるから夏の季語であり、「秋」ではない。かなり長いこと俳句になじんだ人でも、「涼し」を秋の句に使ってしまうことがある。初秋になって本当に涼しく感じる時期の季語は「新涼」「秋涼し」。その次に「冷やか」や「秋冷」が来て、さらに秋深まれば「やや寒」「肌寒」「朝寒」「夜寒」となって、冬にバトンタッチする。つまり「秋冷」は「新涼」と「肌寒」の中間期くらいの季感である。ついでに言えば、「朝冷え」は秋だが「冷たし」とか「底冷え」というのは冬の季語である。この辺まことに初心者泣かせである。

 俳句では八月七日か八日の立秋から「秋」である。しかし実際はこの頃が暑さのピークであり、残暑が幅をきかせているから、八月中旬までは「秋冷」の感じにはほど遠い。せいぜい寝転がってみると壁や畳が「ひんやり」したというくらいのところであろう。

 しかし八月下旬になると日中はまだ暑さが残っているものの、吹く風になんとなく秋を感じるようになる。これが「新涼」である。そして九月に入ると、朝晩はひんやりとした空気がただよう。これが「秋冷」である。もちろん日本列島は南北に長いから、ことに秋の微妙な気候変化は一律には言えない。あくまでもこれは東京近辺での事を述べているわけで、東北地方や山国では秋冷はもっとずっと早く、八月に入ると間もなく感じられるようになる。『紫陽花に秋冷いたる信濃かな 杉田久女』というように、梅雨の花である紫陽花がまだ咲き残っているところに冷えが忍び寄る山国もある。

 九月に入ると、太平洋高気圧が支配していた夏型の気圧配置が崩れ、日本列島は大陸から張り出す高気圧と後退した太平洋高気圧にはさまれる恰好になり、そこに前線が発達する。これが秋雨前線で、梅雨のような天気になり、「雨冷え」となる。またこの頃はしばしば台風が襲来し、前線をかき乱して大雨になったりもする。大陸からの移動性高気圧にすっぽりおおわれて、天高く青空が広がる清々しい秋晴れは、まだ一ヶ月ほど先のことである。「秋冷」はこのように、夏が過ぎてから本格的な秋を迎える間の微妙な時期を表現する季語とも言えそうである。実際に秋冷の句には、そのような環境変化の微妙な移ろいを詠んだものが多い。そうした四囲の変化に自分の心を投影した句にも良いものがたくさんある。


  冷やかに人住める地の起伏あり     飯田 蛇笏
  ひやゝかに簗こす水のひかりかな    久保田万太郎
  ひやゝかに卓の眼鏡は空をうつす    渋沢 渋亭
  秋冷の瀬音いよいよ響きけり      日野 草城
  秋冷の憎みあふこゑ窓を出づ      石原 舟月
  秋冷の身におよぶまで雨後の幹     桂  信子
  秋冷や濡れ縁古びゆく色に       高木 晴子
  秋冷の道いっぱいに蔵の影       広瀬 直人
  秋冷の山の戸締めて文を書く      石  昌子
  下駄揃へある秋冷の山盧かな      森田 公司

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