誰が作った当て字か知らないが、秋の刀の魚とは、この魚の姿、色、出回る季節を実に上手に表したものだと感心してしまう。大昔は「さいら」と呼ばれていたのが、いつの間にか訛って「さんま」になったと言われている。関西地方では今でもさいらと呼ぶ人がかなりいるようだ。
春の季語になっているサヨリと親戚筋の魚なのだと言うが、秋刀魚はサヨリとは大違いで、脂っこく、直火で焦げるくらいに焼いたものに醤油をかけて大根おろしをつけて食べるのが一番旨い。サヨリは糸造りにして酢味噌をちょっとつけたり、糸造りにした切身を紐のように結んで清汁に泳がせたりする上品な料理方法があるが、秋刀魚はもっぱら塩焼きになるばかりである。最近でこそ秋刀魚の握り鮨が一部で持て囃されるようになったが、鮓ネタとしてはやはりサヨリが先輩でずっと高級なものとされている。
とにかく秋刀魚は昔から下魚と蔑まれながらも、庶民の秋の味覚の筆頭に挙げられて来た。落語の「目黒のさんま」がこうしたいきさつをうまく現している。
秋刀魚は夏場は千島、オホーツク海で育ち、8月になると産卵のために大群で南下して来る。旧盆過ぎには根室、釧路沖あたりでいよいよ秋刀魚漁が始る。魚群はさらに南下して三陸沖、銚子沖、三浦沖、紀州沖へと下って行く。
江戸時代から第2次大戦直後くらいまでは、サンマ漁船はそれほど大型ではなく、馬力は出ないし、漁具も大仕掛けではなかったので、北海道や東北地方などでは魚群がまだ遥か沖合にいるためあまり大量に獲ることができなかった。たとえいくらか取れたとしても東京などの大消費地に送る輸送手段が限られていたし、苦労して運んでもサンマでは高く売れるわけでもなく、北海道、東北の秋刀魚が生で東京に運ばれることは少なかった。南下するにつれサンマの群は沿岸近くにやって来るようになるので、小型漁船でもいくらでも獲れる。そのためサンマと言えば銚子や紀州が有名になった。従って漁期も秋刀魚がそこいらに近づく11月あたりがピークになったので、晩秋の季語になったようである。ところが最近は8月も早々に北海道沖合で獲れた初物が魚屋に並ぶし、冷凍技術の進歩で前年ものが夏場にも見られるようになった。
秋刀魚はあまりにも一般的過ぎるせいか、江戸時代には季語に入っていなかった。明治になってもほとんど詠まれていない。鰯と比べても可哀想なくらいである。佐藤春夫の「秋刀魚の歌」が発表された大正10年頃から俳句にもぼつぼつ登場するようになり、戦後になって名句が続々と出て来るようになった。身近な物事と取り合わせたやさしく分かりやすい句が多いのも、いかにもこの魚らしい。
秋刀魚焼く煙の中の妻を見に 山口誓子
風の日は風吹きすさぶ秋刀魚の値 石田波郷
荒海の秋刀魚を焼けば火も荒ぶ 相生垣瓜人
ほろほろとにがき腸まで秋刀魚食ふ 石塚友二
遠方の雲に暑を置き青さんま 飯田龍太
をのこ子の父となりたる秋刀魚苦し 岸田稚魚
遠雲になぜ思ひ出す秋刀魚の詩 藤田湘子
秋刀魚焼いて泣きごとなどは吐くまじよ 鈴木真砂女
秋刀魚焼く家を過ぎ先の家も焼く 富田直治
船傾げ海ごと掬ふ秋刀魚かな 岡本日出男