九月になると鮭が川を遡って来る。北海道西海岸が最も多く、本州太平洋岸は利根川あたりまで、日本海側は山口県、福岡県の河川にも上って来る。とは言っても「漁獲高」として記録されるほど遡上して来るのは太平洋岸では福島県あたりまで、日本海側は富山県あたりまでである。
とにかく関東以北の魚だから、京都が日本の中心とされていた昔はあまり馴染みのない魚だったのであろう、和歌にはほとんど取り上げられなかった。江戸時代になって東北、北海道の拓殖が進み、その産物が江戸や関西にも運ばれるようになると、この堂々たる姿をした魚が人々の目にとまるようになり、俳句(俳諧)の素材としても取り上げられるようになった。しかし、冷蔵冷凍技術が無く輸送手段も限られていた当時、生鮭を江戸や関西に送るのは至難の業で、干物にした「乾鮭(からざけ)」や塩漬けにした「塩鮭」(塩引き、荒巻・新巻など)として都会の人々の口に入るのが普通だった。
秋になって河口付近に上って来た鮭を「初鮭」と称して珍重した。数尾上って来れば後から後から押し寄せるように上って来る。川辺には鮭小屋が造られ、見張りが四六時中張り付く。網に追い込み、鮭の頭を撲って気絶させ次々に舟や岸に放り上げる。昔の鮭漁は戦場のような騒ぎだったらしい。
福島、茨城、千葉あたりの江戸に近い川の河口に押し寄せた鮭を水揚げしたものが、時には生のままで江戸に運ばれることもあった。それが日本橋の魚河岸に入れば大した人気を呼んだようだ。こうして「初鮭」というのが秋の季語になった。江戸中期の蕪村とほぼ同時期の俳人溝口素丸は「初鮭の荷や銀さびの夜明けごろ」と詠んでいる。上級武士である旗本だった素丸なら初鮭も賞味できただろうが、生鮭など江戸の庶民には到底手が届かない。庶民はもっぱら乾鮭、塩鮭に親しんだ。
もっとも「初鮭」と言っても塩蔵の鮭だったのかも知れない。塩引き鮭の上等品である「新巻鮭」の走りが秋の終には江戸にもたらされ、これを初鮭と呼んだ節もある。
塩鮭や乾鮭がたくさん出回るのは旧暦十月、今の暦で言えば十一月以降であり、従ってこの二つは冬の季語とされた。曲亭馬琴は「俳諧歳時記栞草」の中で「塩引鮭・塩鰹」と二つ並べて「このたぐひ歳暮の心あらば冬なり」と書いている。鮭、鰹、鰤などの大型魚は塩蔵風干しされて冬場の保存食品として調法がられた。とりわけ新巻鮭は歳暮の品の代表格とされた。
サケと一口に言ってもいろいろな種類がある。日本の河川に上って来るもっとも一般的な鮭はシロザケだが、北海道ではベニザケ(紅鮭)、ギンザケ(銀鮭)、アメリカやカナダでキングサーモンと呼ばれるマスノスケ(鱒ノ介)なども獲れる。その他にサクラマス、その陸封型のヤマメ、ニジマス、イワナなども鮭の仲間である。
紅鮭はベニマスとも呼ばれ、その名の通り肉が紅色でとても美味しく、燻製にするといよいよ旨味が増す。しかし漁獲量が少なく、宝石並みの値段になる。銀鮭は普通のサケに比べて銀色が鮮やかで、肉味が良いが、これまた数が少ない。ただ最近は銀鮭が盛んに養殖されるようになり、デパートの食品売場にも並ぶようになった。マスノスケ(キングサーモン)は北海道の河川に時々遡上して来る程度で、日本ではほとんど獲れない。ほとんどはアメリカ、カナダからの輸入品であり、このサーモン・ステーキはとても旨いけれど、上等のステーキ用牛肉並の値段である。
われわれにおなじみの鮭(シロザケ)は北海道では「秋味(アキアジ)」とも呼ばれている。北海道、東北の河川で生れた鮭の稚魚は春になると体長五、六センチで海へ下り、動物性プランクトンをせっせと食べて成長しながら北上、北洋で小魚や小さなイカ、オキアミなどを捕食しながら四年ほどで成魚になる。
一人前になった鮭はベーリング海を渡り、千島列島に沿って南下し、サハリンから日本近海に至り、秋になってようやくそれぞれ生まれ故郷の河川にたどりつく。ざっと一万キロの大旅行である。
生れた川に近づくにつれ雌鮭のお腹には卵がいっぱいふくらみ、雄鮭の腹部には赤味や黒っぽい斑紋が現れ上顎の骨が曲がり、いわゆる鼻曲がり鮭となる。川の上流部の水質がきれいな場所まで到達すると、雌雄協同で川底の砂利を掘り、産卵射精して一生を終える。
このように鮭が遠く北洋にまで行って再び生れた川に戻って来る習性を母川回帰性と言う。ただ、鮭がどうやって生まれ故郷の川を探り当てるのかについてはいろいろな説があってはっきりしていない。鮭は特に鋭敏な嗅覚を備えていて、それぞれの母川特有の化学物質が発する匂いを嗅ぎ当てるのだろうという説が有力だ。しかし石狩川なり利根川なり、それぞれの川が特有の匂いを発するとしても、いくら何でもそれが遥か数千キロも離れた北洋まで届くはずはない。北洋から日本近海に至るまでは、太陽コンパス、地磁気、海流の走行性などを感知する能力によって泳いで来るのではないかといった仮説が立てられている。
川を遡上し始めた鮭は一切物を食わず、体力を振り絞って川の流れに逆らい、産卵場所に辿りつくことに一心不乱で、産卵行為を終えた後は雌も雄も見るも無惨に痩せ衰えて死を待つばかりという状態になる。だから川に入ってからの鮭は河口付近ならまだしも、遡上したものはまずくて食用にならない。食用にする鮭は河口に近い海上に網を張って獲る。あるいは北洋でこれから故郷を目指して帰るというところを獲ったものが最も脂が乗っていて旨い。
日本の北洋漁業全盛時代には、鮭を捕獲する独航船を数十隻従えた母船が北洋に出動し、捕獲した鮭を母船内で冷凍・冷蔵したり缶詰に加工したりする母船式鮭漁が盛んに行われた。しかし、国際的に水産資源保護の機運が高まり、鮭の母川回帰性を根拠に、たとえ二〇〇海里域外の公海に泳ぐ鮭といえども母川國に所有権があるとの米国、カナダ、ロシアをはじめとした各国の主張が通り、一九八八年には日本の母船式鮭漁は廃止となった。さらに九〇年代になると北洋公海上の沖取りも禁止された。現在は日本の二〇〇海里経済水域内での鮭漁と米加露各国漁船が獲ったものを買い付ける方法、および北欧やチリなどでの養殖ものを輸入する方法で日本国内の需要を満たしている。
一方、生れた川に必ず帰って来る習性を利用して、日本近海で鮭がたくさん獲れるよう、近ごろは各地で鮭の人工孵化放流事業が熱心に行われている。川を上って来たところを捕まえて採卵し受精、孵化させて健康な稚魚を育てて元の川に放流する。三年から五年するとそれらが親魚になって戻って来る。こうした地道な努力が実って近ごろは関東北陸以北の河川には鮭の回帰が目立つようになった。
鮭は主として東日本一帯で古くから親しまれてきた大型食用魚である。正月用の新巻、庶民の弁当には欠かせない塩鮭(塩引き)、卵を塩蔵した筋子、ほぐした卵に醤油や薄塩をほどこしたイクラ、頭部の軟骨を薄切りにして酢漬けした氷頭膾(ひずなます)、内臓の塩辛(めふん)、北海道の郷土料理である三平汁や石狩鍋、一旦凍らせた鮭を刺身にするルイベなど、さまざまな調理法がある。さらに冬場に喜ばれる粕汁には関西地方では塩鰤を用いるが、関東ではもっぱら塩鮭の頭が使われる。
生鮭なら塩焼き、照焼き、バタ焼き、フライなどにすると美味しいし、薄くそいだ切り身を酢飯と重ね合わせ重石をかけてしばらく馴らした鮭寿司、あるいはカブや大根と一緒に漬込んだり、洋風にタマネギの薄切りと一緒にドレッシングで和えたマリネもいける。江戸時代から鮭漁が盛んだった新潟県村上市の三面川付近には、鮭の頭から尻尾まで余すところなく利用する鮭料理が百種類も伝わっているという。
初鮭や網代の霧の晴間より 各務 支考
初鮭の荷や銀さびの夜明ごろ 溝口 素丸
山風や世を鮭小屋の影法師 加舎 白雄
みちのくの鮭は醜し吾もみちのく 山口 青邨
友は健在年に一度の鮭だより 加藤 楸邨
鮭飯のほの赤味さすぬくみかな 大野 林火
鮭のぼる川しろじろと明けにけり 皆川 盤水
鮭のぼり来る撲たれても撲たれても 道山 昭爾
鮭群れて雨夜月夜をのぼりつぐ 上田 露路
鮭の身の木目のごとくほぐれけり 中嶋 延江