立秋(りっしゅう)

 二十四節気の一つで、旧暦七月の初め、現在の新暦で言うと八月八日前後になる。暦の上ではこの日から秋で、手紙を書くにも「暑中御見舞」が「残暑御見舞」となる。

 しかし旧暦七月であれ新暦八月であれ、現実にはこの立秋が暑さの極まる頃である。これは暦法を考え出した古代中国の陰陽五行思想の影響から出たもので、「これ以上暑くはならない」時を以て「秋の始まり」と定めたためである。同じことは「立春」にも当てはまり、旧暦正月初め、新暦の二月四日あたりは寒さが極限になる頃である。

 とにかくいくら暑かろうが、もう秋に入ったのだから、その暑さは「残暑」に過ぎず、やがてそれも下り坂になるという考え方である。こうした考え方には救いがあり、何となくほっとする感じもする。特に、エアコンなどの無かった時代には、「立秋」という言葉を聞いてやれやれという気分に浸る人が多かったのではなかろうか。それと同時に、これから段々と涼しくなり、やがて木の葉が色づき、散ってゆく季節がやって来るのだ、という盛者必衰に思いを致す向きもあっただろう。

 というようなわけで、詩歌の世界では大昔から「立秋」は「立春」と並んで盛んにうたわれた。「秋立つ」「秋来る」「秋に入る」などとも詠まれ、少し気取って「今朝の秋」「今日の秋」とも言う。いずれも「立秋」の言い換え季語であり、「りっしゅう」という固くきつい響きを嫌って昔から好んで用いられている。

 立秋の歌の極め付けとも言うべきものは、「古今集」巻七にある藤原敏行の「秋立つ日よめる 秋来ぬと目にはさやかに見えねども風のおとにぞおどろかれぬる」であろう。これがその後の和歌や俳諧に大きな影響を及ぼした。「立秋」あるいは「秋立つ」の季語には、「まだまだ暑くて秋とも思えないが、吹く風や周囲の景色にどことなく秋の感じが兆している」という意味合いがこめらているとされるようになった。

 その伝統的思考に立った名句は枚挙にいとまがない。芭蕉には有名な「あかあかと日は難面もあきの風」という句がある。「奥の細道」の旅の途中、「立秋」を過ぎ、次の「処暑」にあたる頃、あえぎあえぎ金沢にたどりついた時の句である。北陸有数の文化都市金沢には、達者な俳人たちが芭蕉を待ち構えていた。手紙のやりとりなどでそれを十分わきまえている大宗匠としては、初めて顔を合わせる連中に、古格を踏まえた秋の句を示してやらねばならない。そんな意気込みがこもっているようにも感じられる句である。

 芭蕉の高弟で美濃派の祖と言われる各務支考と交遊のあった加賀千代女には、「秋立つや風いくたびも聞直し」という句がある。これも敏行朝臣の「風のおとにぞおどろかれぬる」の本歌取りと言えよう。蕪村はさすがに絵描きらしく同じ本歌取りでも「硝子(びいどろ)の魚おどろきぬけさの秋」と色彩感覚豊かに詠んだ。ガラス鉢の中の金魚が立秋の風によって小さな波紋が立ったのを喜んでいるといった景色であろうか。ようやく夏が越せるぞと喜んでいる蕪村が見えるようだ。

 風の音に秋の気配を感じてはっとする(驚く)という詠み方が伝統的とされ、それは現代俳句の立秋の句にも続いている。しかし、自由闊達が命の俳諧だけに、俳人たちは古きも新しきも、風の音に留まらず、あらゆるものに秋を見つけようと努め、ユニークな立秋の句が続々と生れた。


  秋立つやはじかみ漬もすみきって    小西 来山
  温泉の底にわが足見ゆるけさの秋    与謝 蕪村
  立秋の紺落ち付くや伊予絣       夏目 漱石
  ごぼごぼと薬飲みけりけさの秋     尾崎 紅葉
  秋立つや富山へ帰る薬売        寺田 寅彦
  秋立つや川瀬にまじる風の音      飯田 蛇笏
  今朝秋や見入る鏡に親の顔       村上 鬼城
  粥の唇拭いて机にけさの秋       百合山羽公
  秋立つと仏こひしき深大寺       石橋 秀野
  川半ばまで立秋の山の影        桂  信子

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