俳句で「虫」と言えば、秋に鳴く虫を指す。虫は四季を通して至る所に見られ、蝶や蝸牛、カマキリ、蜂、蟻、天道虫、毛虫芋虫、果てはゴキブリなど、上げればきりがない。夏になれば虫どもがそれこそ大変な勢いで繁殖するけれど、やはり秋になってようやく涼しくなってきた頃合い、庭や野原で盛んに鳴く虫こそが人に強い印象を与える。虫の声を聞くと、人間誰しももの思いにふけるようになる。こんなところから自然に和歌や俳句をやる人たちの間で「虫」と詠めば「秋に鳴くもの」という約束事が出来上がっていったのではなかろうか。一年中見られるのに「月」とだけ言えば秋とされ、「花」と言えば春の桜を指すというのと同様、「虫」とだけ言えば秋のものとなった。
蝉も鳴く虫の代表選手だが、これは出現する時期に合わせて夏の季語になっている。蜩(ひぐらし)と法師蝉は秋だが、これは「虫」の中に入らず、蜩、法師蝉とその名前で詠まれ、あるいは「秋の蝉」と詠まれる。
秋に鳴く虫にはいろいろあるが、大きく分けると、キリギリス、ウマオイ、クツワムシ、カヤキリなどの「キリギリス類」と、エンマコオロギ、マツムシ、スズムシ、カネタタキ、カンタンなどの「コオロギ類」がある。前者は主として葉の上に住むため体色が緑色でバッタに似ており、鳴声もガチャガチャとかスイッチョとか大声で粗っぽい。これに対してコオロギ類は美声の持主が多く、平安時代から籠に入れて飼われたりした。大抵は地表の草の根方や石の下などに住み、体色は茶色で地味である。ところが近頃は分類上ではコオロギ類なのに樹上に住むアオマツムシという、欧米から潜り込んで来た帰化昆虫が幅を利かせ、都会の街路樹にまで進出して昼間からリーリー鳴くようになった。虫の世界も国際化している。
それはともかくとして、夕暮になって虫が鳴き始めたり、深夜になってこおろぎの声がどこからか伝わって来るのを聞くと、古人ならずとも感傷的な気分になる。懸命に鳴き、雌を呼び、卵を残して命を終える。その悲しい命に思いを馳せるにつけ、聞いている人間の方も短くはかない人生、この世は仮の宿といった思いにとらわれるのであろう。
虫の傍題には「虫の声」「虫の音」「残る虫」「虫時雨」「虫の闇」「昼の虫」などがある。虫は喉で鳴くわけではなく、羽を擦り合わせて音を出すのだから「虫の音」が正確なのだろうが、昔から音も声も両方使われている。「残る虫」は暦の上では冬に入って、もうずいぶん寒くなってきた頃合いに弱々しく鳴いている虫である。これはまさに哀れを誘う。「虫時雨」はたくさんの虫が集まって、まるで時雨のように鳴き競う様を言う季語である。
「虫」と詠めば秋の夜に鳴く虫全般を言うわけだが、鈴虫とか蟋蟀とか具体的な虫の名前を詠むことも多い。具体的な虫の名前で詠めば、その句を読む側にリーリーとか、コロコロ、チンチロリンなどと特有の鳴声が直に伝わって、鮮やかなイメージを与えることができる。もちろんその逆に、読み手の耳にその虫の音色が染みついてしまって、作者の伝えたい思いが十分に伝わらなくなってしまう危険性もある。
其中に金鈴をふる虫一つ 高浜 虚子
虫なくや我れと湯を呑む影法師 前田 普羅
鳴く虫のただしく置ける間なりけり 久保田万太郎
雨音のかむさりにけり虫の宿 松本たかし
虫の闇えたいの知れぬもの掴む 中村 苑子
湯にひたる背筋にひたと虫時雨 川端 茅舎
蟋蟀に覚めしや胸の手をほどく 石田 波郷
ちちろ虫眠れねば明日凄まじや 楠本 憲吉
鈴虫のひげをふりつつ買はれける 日野 草城
独り居に出前の届くすいっちょん 沢 ふみ江