「古事記」の発端部分に桃の実が登場する。大八洲を生み、多くの神々を生んだイザナミノミコトは最後に火の神を生んだところ大やけどを負ってみまかってしまう。夫のイザナギノミコトはイザナミが恋しくて黄泉の国まで逢いに出かけるが、愛する妻の無残な姿に怖気をふるって逃げ出す。「私に恥をかかせた」と怒るイザナミが次々に放つ魔神魔女軍団から必死に逃れたイザナギは、ようやく黄泉の国とこの世の境、黄泉比良坂(よもつひらさか)にたどり着き、そこに生っていた桃の実を3つもいで投げつけた。すると、さしもの魔神どもがほうほうの体で逃げ散った。命拾いしたイザナギは桃の木に向って、「私を助けてくれたように、これからもこの葦原中国(あしはらのなかつくに)の民が苦しい目に遭うような時には助けてやっておくれ」と言い、感謝のしるしにオオカムズミノミコト(大いなる神の実)という名前を授けたというのである。このエピソードには、当時の日本人が桃の実に疫病神を追い払う霊力があると信じていたふしがうかがえる。
日本各地に伝わり、戦前の国定教科書にも載った「桃太郎」。桃から生れた桃太郎が鬼を退治するという説話は、まさに桃の実には邪気を払う力が備わっていることを具体的に説いたものと言えよう。
桃の実に霊力が宿るというのは古代中国伝統の考えである。桃の木は元々は天上界に生えていたもので、神仙はその実を食べ、「若さ」「活力」「長寿」を保つと信じられていた。
今から3000年も前に出来た「詩経国風」にある「桃夭(わかもも)」という有名な詩も、花嫁の初々しさを桃に譬えて寿いでいる。
桃之夭夭 若さにはちきれそうな桃よ
灼灼其華 光りかがやく花よ
之子于歸 この子がお嫁に行ったなら
宜其室家 うまく婚家に溶け込むよ
という歌だが、その2番は、ふっくらふくらんだ桃の実を詠んで、この娘は豊かな家庭を築くだろうとうたっている。
「帰りなんいざ田園まさに蕪れなんとす、なんぞ帰らざる」という「帰去来辞」で有名な陶淵明(東晋時代の詩人、西暦365年─427年)が書いた「桃花源詩並びに記」は、「桃源郷」という言葉や物語の基となったものだが、これも仙郷は桃の林の奥深くにあるとしている。
「西遊記」にも桃が出て来る。天国の桃園の管理人となった孫悟空が不老長寿の仙桃を勝手に平らげて西王母を困らせ、難詰されると大暴れして天界を大混乱に陥れ、ついには阿弥陀如来によって五行山に閉じこめられてしまう。それから500年の後、天竺に経を取りに行く三蔵法師に助けられ、ここからいよいよ血わき肉躍る悟空の大活躍が始まる。
「三国志演義」の発端も桃園が舞台で、劉備、関羽、張飛がここで出合い、義兄弟の契りを結び、雄壮な一大ページェントの幕が開く。
とにかく中国人は昔から桃が大好きだったようで、宮廷や貴人、大金持の屋敷には桃園が備わっていた。桃を愛でる気風は一般庶民にも伝わり、霊力のある目出度い果物として、桃の実そのものはもちろん、それを象った饅頭(寿桃)や菓子が作られるようになった。今でも祝い事に出す饅頭は桃の実の形をしたものと決まっている。
桃は中国の黄河上流地帯が原産で、日本には縄文時代末期から弥生時代にもたらされ、自然にふえていつの間にか日本自生の果樹のようになったらしい。貝塚などから桃の種が発見されるところから、先史時代の日本人も桃の実を食べていたようである。ただし当時の桃は実も小さく果皮にはうぶ毛が密集して、あまりおいしい果物ではなかったようである。それが証拠に「万葉集」には桃を詠んだ歌がいくつか出て来るが、多くが「毛桃(けもも)」としてあり、花の美しさを賞でてはいるが実の美味しさをうたう歌は無い。
これは推測だが、飛鳥時代になって朝鮮半島や中国との交流が盛んになった頃、先進文化とともに当時の中国で栽培果樹用に改良された桃の木があらためて輸入され、それと同時に桃にまつわる種々の思想、伝説なども入って来たのではなかろうか。
西暦600年代初頭、推古天皇と聖徳太子によって遣隋使が送られ、歴史上正式に大陸との国交が始まっている。先進国の知識をいっぱい詰め込んで持ち帰った当時のインテリたちが、「桃の実の霊力」などということも言いはやしたかも知れない。それから数十年後、天武天皇の勅令によって稗田阿礼が口承伝説のたぐいを述べたものを太安万侶がまとめたのが「古事記」(西暦712年完成)だから、陶淵明の「桃花源記」から約300年も後である。イザナギノミコトが桃の実の霊力で悪鬼を退散せしめたという挿話も、もしかしたら大陸からの思想が当時の日本に広まりすっかり根づいていたことの現れかも知れない。
桃はバラ科サクラ属の落葉小高木。4月に入ると桜にやや遅れて花が咲く。サクラと同じく五弁花が普通だが、八重咲きもある。花の色は淡紅色が多いが白色もあり、花心部分だけが紅色のものや、花びら全部が濃い紅色のものなど多様である。梅や桜の花に比べてずっと派手で華やかなので、中国では桜の花よりも桃花を好む人が多く、日本でも江戸時代までは実よりも花を愛でていた。観賞用として美しい花を咲かせる品種が育成栽培され、今日でも「花桃」と呼ばれ「源平桃」や「枝垂れ桃」などが庭園樹や盆栽になり、雛祭用として温室で早く咲かせたりしている。ところが明治時代になって中国から「天津水蜜桃」「上海水蜜桃」という大ぶりの実をつける品種が入って来て、果実が持て囃されるようになった。
さらにこの上海水蜜桃に改良が加えられ、岡山で素晴しい新品種「白桃」が生れて爆発的な人気を呼んだ。天津桃もそうだが、それまで日本にあった桃は「桃太郎」の絵本に出て来るような果頂部の尖った桃で、果肉は赤味を帯び、熟しても固く、酸味がややきつかった。ところが岡山で生れた白桃はほぼ真ん丸で、果皮のうぶ毛もそれほど目立たず、果肉はうっすらと黄色みを帯びた白色の上品な姿をしている。熟した実はねっとりとなめらかで、果汁がしたたり、甘味が非常に濃い。
この白桃を元にさらに品種改良がなされ、昭和初年には神奈川県で白桃と橘早生という品種を交配して「白鳳」が生れた。白桃が8月上旬から出回り始めるのに対して、白鳳は七月初めには出荷できる。多汁で甘味濃厚な白桃の特徴を受け継ぎ、しかも早く出回るということから、大人気の品種になった。さらに第2次大戦後には白桃と白鳳を掛け合わせた「あかつき」をはじめ、長野、山梨、福島などで次々に優良品種が輩出した。
今日では桃と言えばほぼ100パーセント「白桃」系統であり、昔ながらの先の尖った天津桃系統はほとんど姿を見せない。元祖の岡山の白桃は「本白桃」とも呼ばれ、相変わらず珍重されているが、収穫量、作り方の難しさなどから生産高はそれほどでなく、全国的な出荷高では「白鳳」「あかつき」が群を抜き、「川中島白桃」「日川白桃」「浅間白桃」などが続いている。生産地も昔はそれこそ「桃は岡山県」と言われていたものだが、今では山梨県がトップで、福島県、長野県、そして岡山県ということになっている。
とにかくこうして日本に桃の優良品種が続々と生れ、今日では生食用の桃で日本に匹敵するようなものを作っている国は無い。80年代半ば、ちょうど桃の実の熟す頃に北京に出かけた折、明十三陵の近くでムシロの上に桃を山と積んで売っているのに出会した。見ると真っ赤で先の尖った大きな「桃太郎の桃」である。いかにも美味しそうに見えたので買い求め、皮のうぶ毛をこそげ落としてかぶりついたがガリガリして果汁が乏しく、甘味もそれほどでなくがっかりした。明治初年に日本に入って来た当時のままという感じであった。これはたぶん熟し切っていないためだろうと考え、残した一個を大切にカバンにしまい込み、じゅうぶん柔らかくなった3日後に取り出して食べたところが甘味も酸味もないもそもそとした食感で一口でやめてしまった。
その後何回か訪れた北京では「大久保」(ダージュウバオ)という桃が大人気になっていた。これはかなりジューシーで甘味もあり、なかなか旨い。案内してくれた中国人は中国原産の桃だと言いい張っていたが、日本にも戦前から「大久保」という白桃系統の品種があり、姿形がそれによく似ている。「大久保」という名前と言い、どうも日本から逆輸入した苗木が基になっているのではないかと疑いながらかぶりついた。
ヨーロッパ各国にも桃はあるが、やはり果肉がガリガリ、シャリシャリして、甘味も薄くあまり旨くない。主流は果肉が黄色の「黄桃」であり、缶詰にしたりシロップ漬けにしたりしている。また、果皮がつるつるしてうぶ毛が生えていないネクタリンという桃もある。これはこれでとても美味なものがあり、近ごろは日本でもかなり栽培されて、店頭に並ぶようになっている。
桃に霊力ありとは古来言われているところだが、実際に桃には薬効がある。桃の実の植物繊維には整腸作用のあるペクチンが多く含まれ、血圧を下げる働きのあるカリウムや、冷え性、二日酔に効くナイアシンが含まれている。葉は汗疹、湿疹に効くと言われ、昔は赤ん坊の湯浴みの湯には桃の葉を入れた。種子を割ると中にアーモンド(これも桃の仲間)のような核(仁)があり、これは漢方の重要な素材になっている。桃仁は血行を良くし、腸をうるおす力があるとされる。「桂枝茯苓丸」「桃核承気湯」「疎経活血湯」といった漢方薬は月経困難・不順、更年期障害のイライラ、のぼせ、頭痛、さらには腰痛、座骨神経痛など、主に女性向けの薬だが、これらには桃仁が主剤として入っている。
さて、桃と俳句との関りだが、「桃の花」が晩春の季語として江戸時代に盛んに詠まれ、「わが衣に伏見の桃の雫せよ 芭蕉」「昼舟に乗るやふしみの桃の花 桃隣」「船頭の耳の遠さよ桃の花 支考」「桜より桃にしたしき小家かな 蕪村」「老いが世に桃太郎も出よ桃の花 一茶」など多くの作例があるのに、「桃の実」はほとんど詠まれなかった。「桃」と言えば花を指すものと受け取られ、実の方はほとんど顧みられず、季語として意識されていなかったようである。
明治に入ってからも桃の実はあまり取り上げられず、大正年代に入ってどっと現れるようになる。やはり明治末に美味しい桃の新品種が生まれ、それが広まるに連れて、俳句にも詠まれるようになったようである。だから「桃の実」が季語として確立したのは大正期ということになる。というわけで、季語としては割に新しいものであり、前からある「桃の花」に遠慮して「桃の実」となっているのだが、近ごろは「桃」とだけ詠んで実を表わす句が多くなっている。
「桃の実」あるいは「桃」と詠んだ句がもちろん多いのだが、「白桃」「水蜜桃」「天津桃」と品種で詠む例もかなり目立つ。桃の句はみずみずしさ、うぶ毛の生えたふっくらとした形、上品な甘い香りなど、その実の特徴を正面から捉えたもの、そこから連想される思いなど、おしなべてやさしい句が多い。
白桃をよよとすゝれば山青き 富安風生
中年や遠くみのれる夜の桃 西東三鬼
白桃を洗ふ誕生の子のごとく 大野林火
さえざえと水蜜桃の夜明かな 加藤楸邨
戸をたてて白桃にほふ仏の間 柴田白葉女
桃むけば夜気なめらかに流れそむ 井沢正江
桃冷す水しろがねにうごきけり 百合山羽公
と見かう見白桃薄紙出てあそぶ 赤尾兜子
白桃のかくれし疵の吾にもあり 林翔
みづからの重みに桃の傷みゆく 石川千里