秋になると川はもとより湖も池も、海も、あるいは金魚や目高を飼っている庭先の甕の水も澄んで来る。秋は空気が澄んで遠くまで見通せるようになり、天高く晴れ上がる。そういう気持ちの良い秋の澄みわたる様子を、水に代表させて言うのが「水澄む」という季語である。初秋から晩秋まで、いわゆる「兼三秋」の季語だが、やはり残暑の八月ではまだその感じは薄く、十月に入ってからにふさわしい言葉である。
「秋の水」(秋水)という和歌や連歌の時代から詠まれ続けてきた季題があり、「水澄む」はこれとほぼ同類、あるいは秋の水の傍題と言ってもさしつかえなかろう。ただ連歌や俳諧の指導書に「秋の水はもっぱら澄む心にする」と書いてあるように、「秋の水」は澄み切った心、心情を述べることに重きを置くこととされてきた。これに対して、「水澄む」は素直に自然界の変化をうたい、そこから引き出されて来る気分などが詠める広がりを持っている。わざわざ「澄む」と言い切っているところからも、季節の移り変わりによる自然の変化に主眼を置いていると言えよう。
また「秋の川」という似たような季語もある。これも流れる水が澄んできたことに目をつけたものであることに間違いなく、「秋の水」や「水澄む」と大いに重なり合う。しかしこれはあくまでも「川」である。
こうしてみると似たような三つの季語の中で、「水澄む」に一番自由度があるように思える。研ぎ澄まされた日本刀を形容するのに「三尺の秋水」という言葉もあるように、「秋の水」という季題には澄んだ心、明鏡止水の心境など、心の領域に踏み込んだ意味合いが付与された。やがてはそうした心を詠むようにすべきだという約束事になってしまった故に、少々使いにくい季語になってしまったきらいがある。「秋の水心の上を流るなり 暁台」「澄むものの限り尽せり秋の水 乙二」というような句が代表例だが、ともすれば心象にとらわれがちとなる。「秋の川」は言うまでもなく川に限定され、秋になって水の澄んできた「川」のイメージが大前提になる。
もちろん、我々はこうしたことに縛られる必要はなく、堅苦しい約束事の枷をはずしてしまえばいいわけで、実際に森羅万象を自由闊達に詠んだ名句は多い。その点では、「秋の水」「水澄む」「秋の川」の区別などという難しいことはあまり考えない初心者がかえって名句を詠んだりする。ところが俳句を詠むことに少し慣れて、季語の意味合い(本意)といったことに思いを致すようになると、どうしてもとらわれてしまう。季語にがんじがらめに縛られて、古句をなぞっただけのような新鮮味のない句を作ってしまうのだ。
歳時記にはこの三つの季語が独立して並べられていることからしても、そこにはそれなりの理由がある。それぞれの意味合いをよく知り、三者の区別を意識することは大切だが、「知った上で忘れる」ということも大事である。こうしたことを念頭に、「秋の水」「水澄む」「秋の川」の句をいくつか検討してみよう。
眠りたる目を洗はばや秋の水 向井 去来
うにの棘しづかにうごく秋の水 豊山 千蔭
とんぼうや羽の紋透いて秋の水 室生 犀星
水澄めば太古の蠑螈底を這ふ 山口 青邨
水澄むやとんぼうの影ゆくばかり 星野 立子
水澄みて亡き諸人の小声かな 秋元不死男
秋の河うき世の人に遠ざかる 吉分 大魯
秋川に泳ぎしもののすぐ消えし 中川 宗淵
吾に近き波はいそげり秋の川 橋本多佳子
歳時記をめくって目に止まった「秋の水」「水澄む」「秋の川」の句を三句ずつ拾い出したのだが、これらの句を見ると、乱暴な言い方をすれば、三つの季語のへだたりはあまり無いようである。中には「秋の水」にも、「水澄む」にも、あるいは「秋の川」にしてもいいような句すらある。ただじっくり読むと、「ああこれはやはり秋の水だなあ」とうなったり、「これは水澄むがぴったりだな」と思うようにもなる。ここいら辺は微妙である。作者の置かれた場所と時、そしてその時の心情によって、三つの季語のうちどれを用いるかが自ずと決まって来るのではないか。
とにかく、「水澄む」は単刀直入に水の様相の変化を言っているだけだから、これを用いて秋も深まったという写生を詠んでもいいし、場合によってはそこから引き出された気分をうたう人事句に使ってもいい。そんなこともあってか、「水澄む」は現代俳句になってからことに盛んに用いられるようになった。
一むらの木賊の水も澄みにけり 鈴木 花簑
水澄んでをるといふのみただ野川 池内たけし
水澄みて金閣の金さしにけり 阿波野青畝
投票に出るや一本野川澄み 平畑 静塔
洞窟に湛へ忘却の水澄めり 西東 三鬼
水澄むや人はつれなくうつくしく 柴田白葉女
水澄みて恋をする瞳がよくのぞく 加藤知世子
水澄みて四方に関ある甲斐の国 飯田 龍太
水といふ水澄むいまをもの狂ひ 上田五千石
のぞく顔とらへては水澄みにけり 杉崎 保則