身に入む(みにしむ)

 秋風がひんやりして来ると、人は誰しももののあはれを感じるようになる。こうした秋のもの思いを誘うような、肌に沁み通って来るような感じを言うのが「身に入む」という季語である。初秋から晩秋まで三秋を通した季語とされているが、残暑に苦しむ8月はまだ身にしむ感じには遠く、やはり九月の仲秋に入ってからのものであろう。

 「そぞろ寒」「やや寒」「肌寒」「冷やか」「秋冷」というような季語が、少々寒さを感じる秋の時候そのものを指しているのに対して、「身に入む」はもう少し心情的側面を強調している季語と言えようか。「身に沁む」「身に染む」と書くこともある。

 「しみる」は「薬がしみる」とか「煙が目にしみる」、あるいは「身にしみる言葉」などと言うように、液体、気体または音などが身体のなかに沁み込んで来るような、感覚と感情を刺激する動きのことである。

 平安時代から「身に入む」は和歌の中でよく使われた。大概は秋風や恋と結びついている。数多詠まれた中でも、『夕されば野べの秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里』という、平安末期の大歌人、藤原俊成の歌が「身に入む」の季感を定着させたと言われている。つまり、秋風が身にしみる頃になって、いよいよ物を思う心も深まることよ、といったところである。

 俳句の方で「身に入む」の極め付けは、何と言っても芭蕉の『野ざらしを心に風のしむ身かな』である。芭蕉41歳、古典や漢文漢詩の研鑽を積んで、それらを踏まえた俳句をさんざん詠んだ挙句に、いよいよ自らの独自性、すなわち「蕉風」を確立したいと思うようになった。それを探り当てるきっかけを為した「野ざらし紀行」(貞享元年=1684年)の巻頭の一句がこれである。

 「野ざらしになる覚悟で旅に出るのだが、それにしても秋の風が身に染み、引き締まる思いがすることよ」といった意味だろう。深川の芭蕉庵を出立したのが旧暦の8月だから、現在の9月半ば、日によっては肌寒い感じを抱くこともある頃合いであった。旅立ちの緊張感を増幅するひんやりとした秋風に、思わずぶるっと武者ぶるいしている芭蕉の姿が目に浮かぶ。

 もう一つ有名なのが与謝蕪村の『身にしむや亡妻の櫛を閨に踏む』である。馴れ親しんだ妻に先立たれた男が、やや寒の夜、独り寝の寝室の暗闇で何かを踏んだ。あれの櫛がどうして今ごろここに……。昔の思い出がどっと胸にこみ上げてきて茫然とし、しみじみと悲しみが沸き上がって来る。『ナキツマノクシヲ、ネヤニフム』という、字余りの中七下五によって、突然のことにうろたえ、身にしむ思いにとらわれる主人公のどぎまぎした心の有り様が伝わって来る。

 このように「身に入む」は、冷気が身の内に沁み通って来る感じから、もののあはれや、さらには万物枯れ果てる冬はもうすぐそこに迫っているといった心細い感じまで伝える言葉である。現代俳句ではその点が強調されて、この世のはかなさ、自然と人生のさびしさなどを詠う季語として使われることが多いようである。


  野ざらしを心に風のしむ身かな   松尾芭蕉
  身にしむや宵暁の舟じめり   榎本其角
  身にしむや亡妻の櫛を閨に踏む   与謝蕪村
  さり気なく聞いて身にしむ話かな   富安風生
  佇めば身にしむ水のひかりかな   久保田万太郎
  みにしみてつめたきまくらかへしけり   飯田蛇笏
  身に沁みて夕映わたる門の石   加藤楸邨
  身に入むや立枯松も鳴り出でゝ   石塚友二
  身に入むやあかりともさぬ戸に帰り   平野みよ子
  身に入みて貝殻骨のありどころ   岡本眸

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