蚯蚓鳴く(みみずなく)

 秋の夜、闇の中からジージーと単調で連続的な鳴声が伝わって来る。これを古人は蚯蚓が鳴くのだと言った。実際は螻蛄(けら)が鳴いているのだが、あの手足も目玉もなく何が面白くて生きているのか分からないミミズが鳴いているのだそうだ、と面白がって季語に取り上げたところが、また実に面白い。

 瀧澤馬琴編、藍亭青藍補筆の「増補改正俳諧歳時記栞草」には「三秋を兼ねる物」として「蚯蚓鳴」を載せており、「其の鳴くこと長吟、故に歌女と名づく。孟夏はじめて出、仲冬蟄結す。雨ふるときは先づ出、晴るときは夜鳴く」と解説している。これは寺島良安の「和漢三才図絵」から引いたものらしい。

 蚯蚓は鳴くものと一人合点して、それ故に歌女と名付けるのは強引と言ってこれほど強引なことはない。その鳴き声たるや実に地味で、ただジージーッというばかりだから歌姫にはほど遠い。あるいはこれは哀婉たる美姫の感極まった忍び音ととったのか、つれない仕打ちを恨む溜め息と解釈したのか、とにかく俳人の想像は止まる所を知らない。

 ミミズという動物は全世界の土壌に棲み、何種類あるのか分からないという。環形動物門貧毛綱類に分類され、その下の「科」や「種」となると生物分類学でも正確に名付けられないものがいっぱいあって、未だに新種とされるものが続々発見されているという。日本にも何百種類というミミズがいるようだが、一般に畑や森林、堆肥やゴミ溜めにいて釣り餌になるフトミミズ、シマミミズ、ドブの中などにいて金魚や熱帯魚の餌になるイトミミズなどがおなじみである。

 環形動物と言うように、身体中が輪をつなげた形でそれを薄い皮膜でつないでいる。成熟したミミズには端の方に一部分太くなった「環帯」があり、環帯が付いている方の先っぽに口がある。その反対側の尻尾の先に肛門があり、その中を長い腸管と血管が通っている。眼も耳も無いようだが、口の付近には視覚細胞があり、これで明暗を識別する。年中土の中にいて、一日に自分の体重ほどの土を食べ、長い身体の中を通過させながら土に含まれる有機物質や微生物を消化し栄養分を吸収、尻から粒状の糞をひり出す。この糞が植物の根を生やすのにまことに都合の良い団粒構造の土壌を作る基になる。ミミズは土を良くしてくれるというので、昔からお百姓にとっては愛すべき存在だった。同時にモグラやネズミ、小鳥やイノシシの大好物でもある。

 何しろミミズには骨がなく伸縮自在だから正確な体長を測るのが難しく、学者を困らせている。「普通の状態でいるところ」と言っても、どれが普通の状態かを決めるのも難しい。そこで大体のところを言っている。我々が通常目にするシマミミズやフトミミズなどは十センチ内外だが、石川県から滋賀県にかけて棲息しているハッタミミズというのは六十センチにもなるそうだ。世界最大と言われるオーストラリア産のジャイアントワーム(メガスコリデス・アウストラリス)は三・五メートルもある。シドニーに住んでいた時、ヴィクトリア州の森林で採れたというのを研究室の暗い物置のような部屋で見せられたが、それは人の背丈ほどだった。もちろん宝物で、上に引っ張り上げると骨格の無い悲しさで切れてしまうから、飼育箱の中でとぐろを巻いて静かに眠っているところをうやうやしく拝観した。太さは青大将ほどで大したことはないが、ただ気味が悪いばかりだった。

 ミミズは雌雄同体で、環帯の前部にオスの生殖器、後部にメスのがくっついているという。時至ると二匹のミミズが逆向きに寝て、自らのオスの物を相手のメスの部分に押し当て事を行う。両者同時に妊娠すると、それぞれ腹の外側に分泌液を出し袋のようなものを形成し、そこに受精卵を封入、自ら蠕動前進し、まるで運動会障害物競走の網くぐりのようにその袋から抜け出す。土中に残った袋からやがて子どもミミズがたくさん誕生する。というのだが、ミミズの愛情行動から二世誕生までを克明に観察するのも並大抵のことではあるまいなと、メルボルンの大ミミズ研究家の髭面を眺めつつ、つくづく感心した。

 漢方では昔からミミズを「赤龍」「地龍」と言い、乾燥したものを粉末にして煎じ解熱剤や気管支喘息に処方した。最近の研究ではミミズには血栓を溶かす酵素が含まれていることが分かり、健康食品として売られるようになった。さらに研究が進んで、確実な効果をもたらす成分が抽出されるようになると医薬品として登場するかも知れない。

 とにかくミミズは大昔から人々の目に触れてきたのに、まだよく分かっていないところが多い生物のようだ。「蚯蚓鳴く」などという俗説をいまだに信じ込んでいる人が多いのもその一つであろう。「蚯蚓鳴く」だけではなく、江戸時代に生れた季語の中には「亀鳴く」「地虫鳴く」「蓑虫鳴く」と、本来鳴かないものを勝手に鳴くと決めつけたものがある。鳴声とは関係ないが、「龍天に登る」(春)、「雀蛤となる」(秋)、「獺魚を祭る」(春)、「鷹化して鳩となる」(春)、「田鼠化して鶉となる」(春)など、七十二候から採った不思議な季語もある。さらには春になって眠気を催す頃を称して「蛙の目借時」と言ったり、冬季に原因不明の切り傷ができたりすると「鎌鼬」のしわざとして、早速句に仕立てたりした。いずれも荒唐無稽と言ってしまえばそれまでだが、恐らく昔の俳人たちもそんなことは百も承知の上で、空想の世界に遊びながら句想を広げていたのではないか。

 秋の夜長に鈴虫、松虫、蟋蟀などを聞くのもいいが、地の底から湧き出して来るような「蚯蚓鳴く」声に耳澄ますのもまた趣深い。


  蓙ひえて蚯蚓鳴き出す別かな      寺田 寅彦
  蚯蚓鳴くかなしき錯誤もちつづけ    山口 青邨
  蚯蚓なくあたりへこごみあるきする   中村草田男
  蚯蚓鳴く疲れて怒ることもなし     石田 波郷
  蚯蚓鳴く六波羅蜜寺しんのやみ     川端 茅舎
  みみず鳴くや肺と覚ゆる痛みどこ    富田 木歩
  蚯蚓鳴く辺に来て少女賢しや      岸田 稚魚
  蚯蚓鳴き故郷の夜道今も同じ      福田 蓼汀
  みみず鳴く引きこむやうな地の暗さ   井本 農一
  蚯蚓鳴く遺愛の硯中くぼみ       安田 優歌

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