木の葉や果実が黄色く色づいて落ちることを言う。俳句ではイチョウやナラ、クヌギなど雑木の黄葉を言い、中でも代表的な銀杏黄葉(いちょうもみじ)をイメージすることが多い。
「銀杏黄葉」や「雑木黄葉」という季語とほとんど同じ意味だが、それらが黄葉そのものを言うのに対して、「黄落」には「黄色くなって散る」という「動き」の感じが含まれている。また黄落期という言葉があるように、黄葉の季節や雰囲気を表す働きがあり、そこから敷衍して、人生や物事の終焉が近づいているというニュアンスも帯びた言葉である。
つまり、「黄葉」や「銀杏黄葉」などに比べ、より抒情的、感傷的な季語であると言えよう。「コウラク」という響きと言い、意味するところと言い、なんとなく明治期の新体詩詩人が発明した言葉のような感じだが、「日葡辞書」(慶長8年・1603年、イエズス会士が長崎で編纂刊行)にも載っていることからすれば、かなり古くから文章語としては存在していたようである。ただし、季語として取り上げられ、俳句に詠まれるようになったのは、やはり明治以降のことで、河東碧梧桐の「会下の友想へば銀杏黄落す」あたりが古い作例のようだ。
色づいて散る、いさぎよく散る、終末期、といったかなり感傷的な意味合いを持った季語だから、一見、句に仕立てやすい感じがするが、なかなか一筋縄では行かない。「加齢」だの「身の弱り」だのを述べながらこの季語を使おうものなら、それこそ薄っぺらな救いようのない俳句になってしまう。危険な季語である。
水禽舎声にぎやかに黄落す 右城暮石
平家納経紺地黄落ふりかかる 細見綾子
旅にも薬餌楢の黄落いさぎよし 山口草堂
日の当るところ馬寄り黄落す 村山古郷
黄落の道いくまがりみちのくは 桂信子
黄落の奈良には苔の道多し 小寺正三
黄落の奥へ明るき寺領かな 神蔵器
胸中に何の火種ぞ黄落す 手塚美佐
鵜のくぐる水の底まで黄落期 きくちつねこ
黄落の街マネキンを横抱きに 今井聖