蟋蟀(こおろぎ)

 バッタ目コオロギ科の虫の総称で、秋鳴く虫の代表選手。都会の路地裏にも棲み、昼間は草の下や人家の縁の下、溝の中、ゴミ溜めの下などにひそみ、夜になるとしきりに鳴く。

 最も一般的な種類がツヅレサセコオロギで、体長一・五センチ程度。初秋から晩秋霜の降りる頃まで活躍する。リーリーリーリーと切れ目なく鳴き続け、それが「針刺せ、糸刺せ、綴れ刺せ」と人間どもに冬支度の針仕事をうながしているように聞こえるというので、こう呼ばれるようになった。一茶にはそれを詠んだ「つづれさせさせとて虫が叱るなり」という句がある。「つづれさせ」という呼び名は平安時代からあるというからずいぶん古い。今でこそ冬の衣料品などは簡単に安く手に入るが、昔は貴重品で、庶民は袷をほどいて破れをつくろい、綿など入れて冬物に仕立て直すのが主婦の重要な仕事だった。いわゆる秋の夜長の「夜なべ」である。我々のご先祖様にはコオロギの鳴き声がそう聞こえたのも不思議ではない。

 一番大きなのがエンマコオロギで、二センチ以上もある。黒褐色で頭が四角で閻魔大王の冠のような形なのでこの名がついた。いかつい身体に似合わずコロコロ、コロコロと可愛い声で鳴く。頭が三角形のミツカドコオロギはツヅレサセより小型で、リリリ、リリリと小さく鳴く。これにチッチッチと鳴くオカメコオロギが関東地方はじめ日本各地のコオロギの代表的なものである。

 「鳴く」と書いたが、コオロギは声をあげて鳴くわけではなく、翅にヤスリ状の発音器があり、これを擦り合わせて音を出し共鳴器で増幅してあの美しい音を響かせている。普通は夜から明け方にかけて最もよく鳴くのだが、「こほろぎの夜啼いて朝鳴いて昼鳴ける 内田百閒」という句があるように、秋も深まるにつれ朝も昼も鳴くようになる。子孫繁栄をはかるためにメスを呼ぼうと必死なのだ。


  夕月夜心もしのに白露のおくこの庭にこほろぎ鳴くも(湯原王・万葉集巻八)
  庭草に村雨ふりてこほろぎの鳴く聲きけば秋づきにけり(作者不詳・同)
  こほろぎの待ち歓ぶる秋の夜を寝るしるしなきまくらと吾は(同・同)

 このようにコオロギは万葉集にずいぶん詠まれている。ことに三首目などは、コオロギが待ちに待った季節と歓んでいる秋の夜も、添い寝するいとしい人がいなくては私も枕も一向に寝付けやしませんよとやるせない気分を詠んで、コオロギの鳴き声がぴったりくるような歌である。

 ところが万葉集には、鳴き声からすればもっと繊細な鈴虫や松虫などの歌が見当たらない。これはその当時、「コオロギ」が秋の鳴く虫の総称だったからだという説がある。平安時代になると虫の鳴き声を愛でることが流行り出し、鳴き声の当て競べなども行われるようになって、鈴虫、松虫、草雲雀、邯鄲などと細かな名前が出て来た。しかし、リーンリーンと鳴く鈴虫を当時の人たちは松虫と呼び、チンチロリンを鈴虫と言った。さらに当時はコオロギのことをキリギリスと呼んだ。百人一首で有名な「きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかも寝む」(藤原良経・新古今集)のキリギリスもコオロギをうたったものである。

 それにしてもコオロギの漢字「蟋蟀」は難しい。ルビが振ってなければ読める人はあまりいないだろうし、書いてごらんと言われたらバンザイである。「蟋」(シツ)も「蟀」(シュツ)もどちらも翅を摩擦する音の擬声語だという。とすると古代中国人はコオロギの発音メカニズムを知っていたことになる。大変な観察力である。この他、「蛩」「蛼」という字もある。いずれもあんまり難しいものだから、昔の歌人、俳人たちも「こほろぎ」と平仮名ですましている例が多い。

 またコオロギの別名異名には「ちちろ」「つづれさせ」「ころころ」「筆津虫」などいろいろある。コオロギという虫がそれだけ古くから日本人に親しまれてきた証拠でもあろう。その声を耳にすれば「ああ秋だなあ」と感興を催し、物思いにふけるきっかけともなる。

 なお「いとど」をコオロギの別名として、俳諧時代には両者を混同して「いとど鳴く」などと詠んだものもあるが、これは全くの誤用。いとどはカマドウマ(竈馬)のことで、翅を持たず、鳴かない。暗い土間のカマドの回りや物置、浜辺の漁師小屋、ドブなどに棲み、夜間動き回り、長い後足でぴょんぴょん飛ぶ。汲み取り式便所のあたりにもいたからベンジョコオロギなどと呼ばれたが、コオロギとは別種の虫である。


  炉におちしちちろをすくふもろ手かな   幸田 露伴
  こほろぎや入る月早き寄席戻り      渡辺 水巴
  粥すする匙の重さやちちろ虫       杉田 久女
  たのしさはふえし蔵書にちちろ虫     水原秋櫻子
  蟋蟀が深き地中を覗き込む        山口 誓子
  こほろぎのこの一徹の貌を見よ      山口 青邨
  蟋蟀の親子来てをる猫の飯        富安 風生
  こほろぎや草履べたつく宵使ひ      富田 木歩
  明け四時の街蟋蟀を鳴かすのみ      石塚 友二
  こほろぎや眼を見はれども闇は闇     鈴木真砂女

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