木の下や幹あるいは倒木に生えるから「木の子」と呼んでいたのだが、それに「茸」の字を当てた。ただし、「茸」はキクラゲやマイタケのように何かにへばりついて横に広がるものを言い、我々が普通思い浮かべるマツタケやシイタケのように笠のあるきのこは「菌」と書くべきなのだという。しかし菌では何だかバイキンみたいなので、今日では笠のあるものも無いものも一緒にして「茸」と書くようになった。古代には「くさびら」とか「たけ」と呼んでいたようである。
茸は葉緑素を持たない大型菌類で、何かから栄養分をもらう必要があって、樹木や堆積した落葉などに寄生している。菌類のうちで、繁殖器官である子実体が特別に大きくなるものがキノコだというから、大雑把な言い方をするとキノコもカビ類も同じようなものだということになる。日本のように湿気の多い土地は茸にとって天国で、一説では千種類くらいあるという。松茸、初茸、椎茸、しめじ、なめこなどは味も風味も素晴らしく、大昔から日本人に好まれていた。焼いたり汁の実にしたり、御飯に炊き込んだりして秋の味覚の使者ともされてきた。
日本が高度成長の道を突っ走りだした頃から、野山は荒れ始め、自然に生える茸が激減した。秋の風物詩でもあった「茸狩」などは夢になってしまった。茸狩は日本独特の秋の遊びだと思い込んでいたから、それが消えてしまったことがとても淋しかった。
ところが、一九七〇年代初めに仕事の都合でチェコのプラハという町に住むことになった時、隣のおじさんが「茸狩に行こう」と言うのでびっくりした。隣近所誘い合い、老人子供も加わって、ブナなどが茂る森に出かけ、思い思いに茸を採る。それぞれが籠にいっぱいの茸を持って集合場所に戻って来ると、選別眼に優れた年よりの茸狩名人が食べられる茸を選り分けてくれる。家に持ち帰って湯がき、塩、酢、サラダ油をまぜた漬け酢に入れ、瓶に密閉して冬の食糧として貯蔵する。野外は雪と氷に閉ざされ食べ物が無くなってしまう冬場に備えて、酢油漬け茸を作るのが北部ヨーロッパの人たちの昔からの習慣なのであった。
もちろん彼らの茸狩も秋の行楽の一つである。貯蔵用とは別に、採りたての茸の一部を皆で持ちよって、焚火をたいて鉄板の上で炒め、卵とじにして食べる。茸狩ピクニックのフィナーレは特産のピルゼン・ビールと茸のオムレツでとてもにぎやかに楽しいものであった。もう日本ではやりたくてもできなくなった行事が東欧には残っているのだなあと、とても羨ましかった。
自然の茸が少なくなった日本では、茸の人工栽培が非常に進んだ。昔は椎茸となめこくらいだったのが、今では数十種類の茸が人工栽培されている。スーパーの店頭にそれらがたくさん並べられ、都会人には昔よりずっと茸に親しむ人が増えている。「しめぢ」などは昔は滅多にお目にかかれない茸だったのだが、近頃は手抜き主婦の味噌汁の実の定番になっている。
しかし、やはり人工栽培の茸はどれもこれもきれいではあるが、香りも味も薄い。たとえば店頭で一番幅を利かしているエノキタケ。白い茎が長く伸び薄黄色の丸い頭がついていて何十本も一塊になっている。根本を切り落として味噌汁の実にしたり、ゆがいて酢の物にしたりすると、ぷりぷりしゃきしゃきした感触があって、なかなか旨い。しかし、これはキノコ工場で作られたエノキタケのもやしである。晩秋や春の雑木林に生えるエノキタケは傘が四、五センチもある立派な茸である。傘は褐色、茎は黒ずんでいる。一見食べたくないような色だが、濃厚な味わいで実に旨い。ナメコだって自然の物は人工栽培のようなちまちま丸まったものではなく、傘の大きさがやはり五センチほどあり、茎も傘もゼラチン状の粘液で覆われ、食べるとかなりの歯ごたえがあって鼻の奥に香りが抜け、自然そのものを頂いているような感じになる。だが今ではこういった自然のエノキやナメコなどは滅多に味わえなくなってしまった。自動車を乗り回し、エアコンの効いた室内でテレビを眺めるという「文化生活」と引き換えに、人間は自然の恵みを次々に手放してゆく。
爛々と昼の星見え菌生え 高浜 虚子
菌汁大きな菌浮きにけり 村上 鬼城
茸やく松葉くゆらせ山日和 杉田 久女
道かはす人の背籠や茸にほふ 水原秋櫻子
食へぬ茸光り獣の道せまし 西東 三鬼
人のこゑ雲と下りくる菌山 石原 舟月
在りし日の父の小膝やきのこ飯 石塚 友二
松茸の傘が見事と裏返す 京極 杞陽
半日は行方不明のきのこ採り 山崎 佳子
重き闇椎茸は夜太りゐむ 草村 素子