菊人形(きくにんぎゃう)

 菊の花や葉を衣裳にして飾り立てた人形。歌舞伎の当り狂言や歴史上の人物などを色とりどりの菊で拵えた人形を、舞台の場面のように配置し見世物とする。文化初年(1810年頃)麻布狸穴で始り、巣鴨あたりにかたまっていた植木屋がそれを見習って一斉に取組み、文化末年には番付が出るほどの大流行になったという。

 その後廃れたりまた流行したりしながら幕末まで続き、明治維新の混乱で全く影を潜めたが、明治10年頃からあちこちで始り、中でも本郷団子坂の菊人形が盛大になった。その後、両国国技館、東横線の多摩川園などでも始り、昭和初年には秋の行楽の目玉の一つになった。

 戦後も落着きを取り戻した20年代後半からまた復活したが、やがてもっと刺激的な動きのあるアトラクションに客を奪われて次々に姿を消し、今では秋のイベント会場の片隅に飾られたり、地方の名物行事として細々と命脈を保っている。

 菊人形はもともとは小菊を用いて、鶴、孔雀、鳳凰などの鳥や帆掛船、富士山などの形をこしらえて、寺社の縁日の景物にしたものが始りである。それが文化文政の町人文化全盛の時代に、歌舞伎の名場面の登場人物などを作り、ストーリー性を付け加えたことで人気爆発、ついにはそれ自体が見世物の主役として大勢の見物客を集めるほどになった。植木屋の中でもこうした「細工物」が得意なのが菊人形作りの専門家になり、これを「菊師」と言った。

 人形の衣裳である花を菊人形展の会期に合わせて一斉に咲かせるには相当の技術が必要で、そこが菊師の腕の見せ所となる。「菊人形莟ばかりの青ごろも 能村登四郎」は開花時期を読み違えたわけであり、「さびしさや懐見える菊人形 増田龍雨」などは、うまくいかなくて花がまばらになってしまったのだろう。そんなことにならぬよう、「菊師いま仕上げの霧を吹くところ 橋本博」と、丹精込めて作り上げた菊人形に魂を吹き込んでいる。

 個人的な趣味を言えば、菊人形は好きではない。家業が園芸関係だったこともあり、小さい頃よく連れられて行ったものだが、子供心にどうも不自然な感じがした。ことに人形の首が不気味であった。こういう時にしか買ってもらえない綿飴やべっこう飴のことばかり考えて、人形はほとんど見ないようにして葭簀張りの中を歩いた。

 菊人形は昔からずいぶん詠まれて例句も多いが、どの歳時記を見ても唸るような名句にはぶつからない。大抵は人形の出来具合や、その出典である芝居や歴史物語の一場面との対比の句である。先に掲げた例句や、「組敷かれて口惜しき顔や菊人形 相島虚吼」とか「菊人形保名は黄菊奴は緋 三溝沙美」というような句がほとんどなのである。つまりこれは、「菊人形を見て来ました。きれいでした」あるいは「面白かった」「あまり面白くなかった」と言っているだけのことである。人形の回りをぐるぐる回っているだけで、思考がそこから離れられないようである。菊人形というものは、あるイメージを誇張して表現した極めて作為的な人工物だから、それをいくら見つめていても、俳人の感興はふくらみようがないということなのであろうか。


  菊人形たましひのなき匂かな   渡辺水巴
  怪しさや夕まぐれ来る菊人形   芥川龍之介
  菊あつく着たり義経菊人形   山口青邨
  動かざることの不気味さ菊人形   渋沢渋亭
  切腹のいまだはたせず菊人形   岬雪夫
  菊人形寝巻の吉良は菊つけず   木田千女
  お染久松菊人形の眼の合はず   白石朝子
  本当は戦争好きや菊人形   和田悟朗

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