菊は天皇家の紋章であり、日本固有の花だと思っている人が多いが、実際は奈良時代に中国からもたらされた園芸植物である。もっとも日本にも、関東から北海道にかけての太平洋岸に自生する白花のハマギク、西日本の海岸に成育するノジギク、やはり関東から近畿にかけての海岸の砂浜に群生する黄花のイソギク、山野で可憐な薄青紫の花を咲かせるノコンギク(ノギク)など、野生の菊は二十種ほどある。しかし、今日私たちが仏壇に供えたり、花瓶に活けたりする小菊や、毎年秋になると全国各地で行われる菊花展で妍を競う大輪の菊は、すべて中国に自生するノギクが基になって園芸品種となった「イエギク」である。
ただし、本家の中国ではさしたる改良がなされなかったイエギクが、日本にもたらされるや改良に次ぐ改良が行われ、ことに江戸時代には菊ブームが起こり、直径二十センチ以上の大菊の厚物咲(花びらが立ち上がって花心を包むように丸まり、半球状に盛り上がる咲き方)や管咲(花びらが管状になるもの)が出現、中菊、小菊もさまざまの色や形のものが生れた。こうして生れた新品種が中国へ里帰りしたり、欧米へ輸出されたりして世界中に広がり、ついには菊が日本の花であるかのような印象を与えるようになった。
菊はかなり丈夫な植物で小さな植木鉢でもよく花を咲かせ、また切り花にしても長持ちすることから世界中で人気ある草花となった。欧米でも中国や日本から運ばれたイエギクが盛んに改良され、地元のキク科植物との交雑などもあって新品種が生まれ、それがまた日本にもたらされるようにもなった。これは洋菊と呼ばれる。
日本では古くから菊の花びらが食用にされ、主として東北地方でモッテノホカなどの食用菊が栽培されている。花びらをむしってさっとゆがいたものを乾燥すると保存食になる。これを適宜取り出して熱湯に浸し、酢の物や清汁の実にする。味わいは別に取り立てて言うほどのものではないが、菊の優雅な香りが漂い、食卓の雰囲気が盛り上がる。
変わり種としては西洋から入って来た食用菊の一つに春菊があり、これは時期を選ばず栽培できるので、今では非常に重宝な野菜になった。また、近ごろはあまり使われなくなったが、昔の日本の家庭で夏の常備品だった蚊取線香の原料もシロバナムシヨケギク(別名除虫菊)という菊である。
中国人は古来「花の王」として牡丹を挙げ、宮廷には牡丹園などを拵え王侯貴族がもてはやしたが、いわゆる文人墨客は菊の花を愛したようである。周(紀元前一一〇〇-前二五六)の王様の小姓が罪を得て河南省の僻地に流され、菊の花にたまった露を飲んで不老不死になったという「菊慈童」の伝説を基に、九月九日の重陽の節句には観菊の宴を張り、菊花を浸した酒を酌み交わし詩を詠んだ。こういう風習が日本に伝わり、奈良時代には宮中で観菊宴が行われるようになった。
しかし何といっても日本の宮廷歌人、文人に最も強い影響を与えた菊の詩は、陶淵明(三六五-四二七)の「菊を採る東籬の下、悠然として南山を見る」であろう。この境地こそ文人たる者の理想であるという考え方が奈良平安の昔から江戸時代の俳人、さらには明治の夏目漱石まで、そして現代俳人にも連綿として受け継がれている。
菊は姿の良いこと、清らかな気品、上品な香りなど、素晴らしい特徴を備えている。ところが菊が嫌いだという人が意外に多い。いつの頃からか、菊が仏前、墓前に供える花とされ、葬儀場は菊で飾られ、棺に入れられる花となったことが災いしているようである。
今や菊の花には紫、青、紅色、ピンク、茶色とさまざまな色があるが、やはり菊本来の白あるいは黄色が好ましい。菊の句は芭蕉はもちろん、古俳諧から現代俳句に至るまで数限りなく詠まれており、その気品を讚えたもの、そこから導き出される清楚で凛とした雰囲気を詠んだものが多い。
菊の傍題には大菊、中菊、小菊、厚物咲、白菊、黄菊、菊の露、菊畑、菊籬などたくさんある。特に「菊日和」という季語は、菊の香が漂う感じの清澄な晩秋の好日をうたう場合に用いられる。また小菊を断崖から垂れ下がる風情に仕立てた「懸崖菊」、初冬の霜の降りるような時期まで咲くように作られた「晩菊」、陰暦九月九日の菊の節句の後にも咲き残り物寂しい風情を醸し出している「残菊」なども季語になっている。
菊の香や奈良には古き仏達 松尾 芭蕉
黄菊白菊其外の名はなくもがな 服部 嵐雪
丸盆に白菊を解く匂ひかな 高井 几董
ものいはず客と亭主と白菊と 大島 蓼太
有る程の菊抛げ入れよ棺の中 夏目 漱石
花はみな四方に贈りて菊日和 宮沢 賢治
しらぎくの夕影ふくみそめしかな 久保田万太郎
たましひのしづかにうつる菊見かな 飯田 蛇笏
黄菊先づ車窓馳すなり町近し 中村 汀女
金婚の鯛の骨抜く菊日和 藤田 トヨ