柿(かき)

 東アジア温帯に広く分布する落葉高木。中国中北部、朝鮮半島、日本で古くから栽培されている。日本へは奈良時代(八世紀)に中国から渡来したようである。日本の風土に適したのか、日本人が好んだせいか、柿は日本中に広がり、品種改良され、中国本土には見られない大型で甘い実を付ける柿の木がいろいろできた。現在では富有、次郎、御所などの甘柿と、平核無(ひらたねなし)、百目、会津身不知(あいずみしらず)、西条などの渋柿も合わせて、八百種類もあるという。

 江戸時代になると、柿はもう日本の特産果実とみなされるようになった。安永四年(一七七五年)に来日したオランダの医師で植物学者のツンベルク(ツンベリー)がびっくりして、苗木や種をヨーロッパに持ち帰り広めた。その時紹介した名前がKAKI。以後、欧米ではこの果物を「カキ」と呼び、その説明として「ジャパニーズ・パーシモン」と言うようになった。しかし、柿は気難しいところがあるようで、気候風土が合わないと小さいうちに腐って落ちてしまったり、たとえ大きな実を成らせても渋味が抜けなかったりする。そんなことが原因なのか、ヨーロッパ各国では市場に出回るほどたくさん作られないらしく、今日でもあまりポピュラーな果物にはなっていない。

 木についたまま朱色にうっすらと紅がかかるころ合いまで待ち、十分に熟しはしたが、ぐちょぐちょにはなっていない実をもいでかぶりつく。そういう柿は本当にうまい。昔は農村部はもちろん町中でもちょっとした庭のある家には、大抵柿の木が植えられていた。芭蕉には「里古りて柿の木持たぬ家もなし」という句がある。

 柿の実が色づくと秋を実感する。梢の方の実は二つか三つ取らずに残して置くのが定法だった。小鳥やカラスにも分けてやろうよという心遣いもあるし、来年またたくさん実っておくれという祈りもある。これを「木守柿(きまもりがき、こもりがき)」(冬の季語)という。柿の葉の紅葉は非常に美しいがあっという間に散り落ちてしまい、木守り柿が青空に際立つ。それも鳥たちにつつかれていつの間にか落ちると、いよいよ冬も本番である。

 柿の俳句と言えば、子供でも知っている「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」に言及しないわけにはいかない。この句は正岡子規が明治二十八年に詠んだものである。

 子規はこの年四月七日、新聞「日本」の従軍記者として、日清戦争で日本軍が制圧した大連、旅順などへ行ったのだが、肺疾患をこじらせて五月十七日、帰国の船中で喀血、神戸の病院に入院して一命をとりとめた。須磨で保養した後、故郷の松山で療養、夏目漱石に金を借りて、十月十九日、松山を立って広島、須磨、大阪を経て奈良へ行った。東大寺のそばの宿屋に泊まった時、名産の御所柿が出た。柿が大好物の子規は女中がむいてくれるのを片端からどんぶり一杯分ほども食べたという。その時、東大寺の鐘がゴーンと鳴った。それで句想を得たらしい。句ができた時には東大寺が法隆寺に変っていた。

 この句を得て子規はとても嬉しかったらしい。「御所柿を食ひし事」という一文が残っており、「奈良近辺の村にも柿の林がみえて何ともいへない趣であった。柿などといふものは従来詩人にも歌よみにも見放されてをるもので、殊に奈良に柿を配するといふ様な事は思ひもよらなかった事である。余は此新しい配合を見つけ出して非常に嬉しかった」と述べている。芭蕉を再発見し、蕪村の俳句を第一等と称揚した子規だから、芭蕉や蕪村をはじめ江戸時代の名ある俳人に柿の句がずいぶんあることを知らぬはずは無いのだが、あえて、これまで歌よみに見放されてきた柿を自分が俳句にしたと書いているのが面白い。

 「柿」と「奈良」と「夕べの鐘」の取り合せ、何よりもそのリズムの良さがいい。二十八歳の青年が奇跡的に命とりとめ、再度上京していよいよ俳句に打ち込む決意をした、ちょうどその時期の作品である。高揚した精神を古き都でちょっと落ち着かせた、そんな折にこのような絶妙な配合を思いついた。その嬉しさがよく分かる句であり、文章である。

 子規は実に几帳面に句やメモをつけていた。「寒山落木」と名付けた句稿集があり、これに思いついた句をどんどん書きつけていった。明治十八年(子規は漱石と同じ慶応三年生れだから、年齢も明治年号と同じ)から、死去した明治三十五年まで、何と二万三千句も作っている。明治二十八年の「寒山落木」巻四に「ことわり書」として「この俳句稿はおのれの句を尽く集め類題と為し置きて自ら閲覧のたよりとなす。この集に載するもの必ずしも善しと思ふ句に非ず」と書いている。つまりこれはまずは自分のための心覚えであり、いずれここから良いものを選ぶなり、推敲するなりして、一本にまとめたいと念じていたのであろう。しかしそれは叶わず、昭和になって弟子の高浜虚子がこれをもとに「子規句集」を編んだ。

 子規は無類の柿好きだったようで、虚子選の「子規句集」に出ているものだけでも数十句ある。明治二十八年の「柿くへば」と共に「柿」の題の下に、「柿落ちて犬吠ゆる奈良の横町かな」「渋柿やあら壁つづく奈良の町」「渋柿や古寺多き奈良の町」「町あれて柿の木多し一くるわ」「柿ばかり並べし須磨の小店哉」「村一つ渋柿勝に見ゆるかな」「嫁がものに凡そ五町の柿畠」「道後 温泉の町を取り巻く柿の小山哉」とずらりと並べられている。

 明治二十九年には「柿くふや道灌山の婆が茶屋」「露月国手を嘲る 渋柿は馬鹿の薬になるまいか」。明治三十年、「つりがねといふ柿をもらひて つり鐘の蔕のところが渋かりき」「柿熟す愚庵に猿も弟子もなし」「稍渋き仏の柿をもらひけり」「愚庵より柿おくられて 御仏に供へあまりの柿十五」「ある日夜にかけて俳句函の底を叩きて 三千の俳句を閲し柿二つ」。明治三十一年、「淋しげに柿くふは碁を知らざらん」。明治三十二年「自ら自らの手を写して 樽柿を握るところを写生哉」「胃痛 柿もくはで随問随答を草しけり」。そして明治三十四年、「柿くふも今年ばかりと思ひけり」。子規はその翌年九月十九日に息を引き取ったのだから、やはりこの三十四年の句の柿が最後に食べたものだったのであろう。

 子規は俳句に写生の重要性を説き、まじめに取組む姿勢が必要だと主張した。しかし俳句には遊びの一面があることも知っていた人で、「言葉遊び」の要素が濃い文芸だということも言っている。だから、仲間たちと句会を催した折などには「一題十句」といって、一つの兼題で十句詠むことなどをやっている。こんなことをやれば当然、駄句も混じって来る。しかしそれでも良いではないか、楽しむことも大事なのだという、おおらかな気分があったようである。だから、ここに挙げた柿の句も、中には私たちレベルの句も見受けられる。それでも子規は一向に気にしない。いかにもうまそうに見えるので、がぶりとやったら渋い。おやおや、という気分。柿のそんなところがいかにも俳諧味で、子規の俳句観にも合っていたのではなかろうか。


  別るるや柿食ひながら坂の上     広瀬 惟然
  渋かろか知らねど柿の初ちぎり    加賀千代女
  渋柿の如きものにて候へど      松根東洋城
  しかじかと日を吸ふ柿の静かかな   前田 普羅
  渋柿の滅法生りし愚かさよ      松本たかし
  柿食ふや命あまさず生きよの語    石田 波郷
  子規よりも多くの柿を食ひ得しか   相生垣瓜人
  当麻寺の塔の見えゐし柿を食む    細見 綾子
  柿を剥く山道たどるごとく剥く    きくちつねこ
  柿の冷え掌にうけて山しぐるるか   鷲谷七菜子

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