鰯雲(いわしぐも)

 秋の澄んだ空に斑点のように、まるで鰯が群れているように浮き出す美しい雲を「鰯雲」という。時には魚の鱗のように見えるので「鱗雲」と呼んだり、鯖の背中の斑紋のようにも見えるところから「鯖雲」とも言う。いずれも高度8000メートルから10000メートルの高空に生まれる雲で、学問上は「巻積雲」と言う。これよりさらに高空、10000メートルから12000メートル、もう成層圏と呼ばれるあたりに、刷毛ではいたような雲が現れるが、これが「巻雲(絹雲)」で、どちらも秋空に特徴的な雲である。

 鰯雲が現れると鰯が大漁になるという言い伝えがあった。また、ちょうど秋鯖の漁期と重なる頃の雲でもある。こんなことから「鰯雲」「鯖雲」という名前が生まれたようだが、両方とも漁師言葉から出たものであろう。風や雲などにまつわる言葉には、漁師や船乗りが言い始めたものが多い。

 曲亭馬琴編・藍亭青藍補「増補俳諧歳時記栞草」には秋之部七月の項に「鰯雲」があり、「秋天、鰯先づよらんとする時、一片の白雲あり、その雲段々として波の如し、是を鰯雲と云」と解説している。やはり馬琴先生も、鰯大漁の前兆としての雲という説を取り上げている。

 真っ青に澄みきった空に鰯雲が浮ぶのを見ると、しみじみと秋が来たのだなあという実感が湧いて来る。野には萩、桔梗、女郎花などの秋の七草をはじめ、コスモス、ダリア、鶏頭が咲き乱れ、金木犀が香る。あちこちで秋祭の笛太鼓の音も聞こえる。運動会やハイキングの話題もはずむ。

 まさに「天高く馬肥ゆる秋」を象徴するような雲である。空気まですっかり入れ替わったように清々しく、世は事も無し、といった幸福感に浸る時でもあり、こうした気分を虚子は「鰯雲日和いよいよ定まりぬ」と詠んでいる。しかし、変りやすいのも秋空の常で、崩れ始めることが多い。

 鰯雲という親しみやすい庶民的な呼び名であるところから、古くからたくさんの句が詠まれている。現代の俳人にも人気のある季語である。


  鰯雲こころの波の末消えて   水原秋櫻子
  鰯雲はなやぐ月のあたりかな   高野素十
  電工の登り切ったる鰯雲   西東三鬼
  鰯雲ひとに告ぐべきことならず   加藤楸邨
  鰯雲甕担がれてうごき出す   石田波郷
  妻がゐて子がゐて孤独いわし雲   安住敦
  人中に遺児うつくしく鰯雲   石原舟月
  鰯雲動くよ塔を見てあれば   山口波津女
  鰯雲日かげは水の音迅く   飯田龍太
  妻たちの旅はじめてのいわし雲   和知喜八

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