花野(はなの)

 花が咲き乱れる秋の野原を言う詩語である。俳句で「花」と言えば桜を指すように、「花野」と聞くと百花繚乱の春を思い浮かべる人が多いが、実は「花野」は秋の季語である。

 春の野にもタンポポ、イヌフグリ、ハハコグサなど花を咲かせる草は多いが、俳句や和歌に詠まれる春の花となると、桜をはじめ、梅、桃、辛夷、椿、躑躅、藤など木の花が断然優勢である。これに対して、秋の花は、萩、撫子、女郎花、野菊、尾花(芒の穂)、桔梗、曼珠沙華、竜胆など、圧倒的に草の花である。

 夏が過ぎ、冬を迎えるまでのほんの一時期の野原に、こうした草花が一斉に咲き乱れる様子は壮観である。派手ばでしい色の園芸植物があふれている今日と違って、自然に生い育ち花咲かせる草花を愛でていた昔は、花咲き乱れる秋の野原は人々に強い印象を与えたに違いない。

 万葉集には「秋萩の花野のすすき穂には出でずわが恋わたる隠妻はも」(よみ人知らず、巻10・2285)と、早くも花野という言葉が現れている。同じく万葉集には山上憶良の「秋の野の花を詠める歌二首」があり、「秋の野に咲きたる花を指(および)折りかき数ふれば七種の花」「萩の花尾花葛花なでしこの花女郎花また藤袴朝がほの花」(巻8・1537・8)と詠まれている。これもまた「秋の野は花野」であるという認識に立っており、それらの花の代表選手として七種(ななくさ)を上げたのであろう。

 秋の七草が出たついでに言えば、春の七草は「セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベ、ホトケノザ、スズナ、スズシロ」で、これらはすべて春に花を咲かせるのだが、いずれも花を愛でているのではなく、食用(薬餌)としての価値をうたい上げている。これに対して、秋の七草は野原を彩る草花として、もっぱら目を楽しませる存在として取り上げている。

 もっとも「花野」と言っても、それを構成している花々の中から一つだけを取り上げれば、どれも実に地味である。中では目立つ方の萩にしても、桜や桃など春の花に比べたら、ずっとおとなしい。しかし、それらの花が野原を埋めるように咲き競うと、魂が吸い込まれるようなあでやかな景色になる。

 だが、秋の花の命は短い。一斉に花咲き、すぐに実を付け、やがて枯れてしまい、あとは荒涼たる枯野となる。それが分かっているだけに、乱れ咲く花野にははなやかさを感じると同時に、もののあはれを抱く。


  広道へ出て日の高き花野かな   与謝蕪村
  吹き消したやうに日暮るる花野かな   小林一茶
  高山の中に日暮るゝ花野かな   大須賀乙字
  大阿蘇の浮びいでたる花野かな   野村泊月
  天渺々笑ひたくなりし花野かな   渡辺水巴
  花野の中に花させし墓見て過ぐる   荻原井泉水
  鳥銜え去りぬ花野のわが言葉   平畑静塔
  観世音おはす花野の十字路   川端茅舎
  花野みなゆれ初めたる通り雨   高木晴子
  縮まらぬ距離に妻いる大花野   池上拓哉

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