お墓参りは季節に関係なく故人の命日に出かけたり、東京近辺では春秋の彼岸に行われることが多いが、全国的に見れば昔からの習いでお盆の行事とされているため、秋の季語になっている。お盆はこれまた大都市では新暦で7月13日からだが、俳句の場合はもちろん旧暦だから8月のこととなり、秋である。
昔は盂蘭盆会が近づくと一家総出で墓所を掃除し、墓石を洗い、いざお盆となると花や供物をそなえて先祖を祀った。今日でも東京、大阪などに出て働いている人や、田舎に実家を持つ人が、8月中旬の月遅れ盆に一斉に故郷に帰る帰省ラッシュが発生する。これも昔のお盆の墓参りの習慣を残していると言えば言えるが、どちらかと言えば子供たちとおじいちゃん、おばあちゃんとの交流をはかりながら、夏休みをとるという現世的目的が色濃いようである。
「墓参」と書いて「はかまゐり」「ぼさん」と両様に用いられるほか、「墓詣(はかもうで)」「墓掃除」「墓洗う」なども使われる。
墓参の句でいつも思い出すのは、高浜虚子が京都・落柿舎の去来の墓をお参りした時の句である。「凡そ天下に去来程の小さき墓に参りけり」というとんでもない字余り句で、落柿舎の庭の一角にこれを刻んだ堂々たる句碑が立っている。去来の墓はというと、ちょっと離れた薮陰にある。この句の通り、それはそれは小さい、高さ30センチばかりの可愛らしいもので、後人の句碑のこれでもかとばかりのばかでかさが滑稽に映る。それにしても「およそてんかにきょらいほどの」という13音もの上の句には度肝を抜かれる。虚子以外の人がこんな句を提出したらどうなることであろうか。「いいかげんにしろ」と言われるのがオチではなかろうか。
「墓参」は上記のように旧盆あるいは月遅れ盆の頃の季語とされているが、近ごろではお彼岸の墓参りの方が優勢なので、9月下旬の秋彼岸のころまでを含めた季語としても良いのではないか。歳時記の例句や俳句雑誌に載っている句を見ると、お彼岸頃の仲秋の景色や雰囲気を詠んだものがかなり見つかる。「墓参」という季語の時間的広がりは徐々に大きくなっているようである。
家は皆杖に白髪の墓参り 松尾芭蕉
己にて絶ゆる血統や墓詣 宮部寸七翁
かんばせを日に照されて墓詣 川端茅舎
きやうだいの縁うすかりし墓参かな 久保田万太郎
掃苔の三人の子の皆女 高野素十
彫に指入れていねいに墓洗ふ 大橋櫻坡子
墓参り遥々来しが永くゐず 山口波津女
ひとり来てお盆の過ぎし墓を掃く 清崎敏郎
ジーンズの相乗りでくる墓参り 石黒裕運
この山の彩見えますか墓洗ふ 前岡茂子