冬隣り(ふゆどなり)

 酔吟会の兼題は、これまで例会の開かれる時期に合わせた季語、あるいはその1、2ヶ月先の季語が出されて来たのだが、今回は既に過ぎ去った秋の季語が出された。「冬隣り」は秋の季語で、句会が開かれる11月22日はもう立派な冬である。しかしこういう兼題は実際にその季節感を味わいながら句作できるから、より実感のこもった佳句が生まれる可能性があろう。酔吟会では兼題は毎回3題出されているから、そのうちの一題は句会の開催時には過去になってしまうものが出されるのも良いと思う。閑話休題。

 「冬隣り」は「ふゆどなり」と濁るのが正しいようである。「ふゆとなり」では、その句を声を出して読んだ時に、「冬になった」という意味に取り違えられる恐れがあるというのも理由の一つらしい。NHKのアナウンサーのアクセントまでが目茶目茶の時代だから、これは説得力がある。

 春夏秋冬それぞれに「隣り」を付けて季語としたものの一つが「冬隣り」である。同様に「近し」を付けてもいい。どちらもほぼ同じ意味合いの季語で、待ち望む新しい季節はもうそこに来ている、という気持である。

 歳時記によっては「冬隣り」「春隣り」など「隣り」を付けた季語は、それぞれ「冬近し」「春近し」の傍題として隅に押しやられている。例句も「近し」の方が「隣り」よりも多いようである。確かに「近し」の方が季節の移り変わりを詠むのに、すっきりした感じにまとめやすいのかも知れない。しかし「隣り」は「近し」と比べると、ちょっとくだけた感じがあり、親近感をもって季節を迎えるような感じを与える。「お隣さん」とか「向こう三軒両隣」という聞き慣れた言葉があるように、「冬近し」というのがきっぱりした響きであるのに対して、「冬隣り」はいかにも人間臭い。「冬近し」が普遍的客観的に「冬が来るぞ」と言うのに対して、「冬隣り」はもう少し個人的な感情に引きつけて物事を言う言葉だと言っても良い。こんなところが「近し」と「隣り」の違いであろうか。

 四季それぞれに「隣り」をつければ季語になるとは言っても、それぞれに軽重はある。重苦しい冬の峠を越えて春はもうすぐそこまで来ているという「春隣り」と、これから厳しい冬になるのだというちょっぴり緊張した気分をこめた「冬隣り」が、季の詞として定着している。これに対して「夏隣り」「秋隣り」はイメージがもう一つはっきりせず、口調も良くないので、「夏近し」「秋近し」がもっぱら使われている。

 「冬隣り」は「春隣り」と違って、来るべき新しい季節を待ち焦がれるとか、ほのぼのとした気分は無く、寒さや暗さを感じて、それに備えるという気持がある。期待感ではなく、心構えである。10月の末から11月初旬、立冬の直前にかけて、日はどんどん短くなり、寒い風は吹き、時にはしょぼしょぼと冷たい雨が降る。ああもう冬が近い、暮はもうすぐそこだ、あれもこれも片づけていない、そんな焦りもちょっぴり含まれている。


  蓼科は被く雲かも冬隣   石田波郷
  くらがりへ人の消えゆく冬隣   角川源義
  冬隣酒断つ決意すぐ破れ   田川飛旅子
  押入の奥にさす日や冬隣   草間時彦
  顔洗ふ水のかたさよ冬隣   手嶋千尋
  洋芹の緑かたまり冬隣    古賀まり子
  白猫のみるみる穢れ冬隣   福永耕二
  まっ黒な鯉さげてゆく冬隣   小笠原和男
  煎餅を焼く手くるくる冬隣   江原博子

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