鰡(ぼら)

 鰡は日本人には大昔からおなじみの魚である。北海道から沖縄まで、各地の沿岸におり、大量にいて比較的捕獲しやすい魚だからかも知れない。「日本書紀」にある海彦・山彦の物語にも鰡が登場する。兄さんの釣り針を無くして叱責された山幸彦が海神に助けを求めに行くと、海神は魚たちに釣り針探索を命じ、「口女口より針を出し奉る」とあるが、この口女というのが鰡の古代の呼称だという。これは当時から鰡釣りが盛んに行われていたことを物語っている。

 スズキ目ボラ科。丸い中太りの棒のような体形で、頭は上から押しつぶしたようにやや扁平になり、前から見ると鼻ぺちゃで、なんとなく愛嬌がある。背中は頭から尻尾まで濃い青、腹は銀白色で美しい。

 晩秋に沿岸部の水深10メートル以上の海底で産卵孵化、春になると体長4、5センチの稚魚が岸辺近くに大群で押し寄せ、河口から遡って内陸部の小川にまで入り込み夏を過ごす。この稚魚はスバシリと言う。

 夏の終わり頃、20センチくらいになってまた海に下り、湾内で生活する。このころの若魚は鯔(イナ)と呼ばれる。イナは11月頃までは岸辺の浅瀬におり、水温が下がるにつれだんだんと深い所に移動し、春になるとまた浅瀬に戻って来る。その頃には体長も30センチになって、眼も大きく、眼の回りには透明の脂の膜(脂瞼)ができている。これが大人の鰡である。

 鰡はイナの時代から3、4年、春から冬まで湾内の浅瀬から深場を往来し、冬場の一時、湾外の深場で産卵してはまた湾内に戻る暮らしを続ける。こうして5年もたつと50センチから時には80センチもの大物になる。これをトドと言う。いわゆる「とどの詰まり」である。トドになった鰡は最後の冬、湾から外へ出て行ったまま、もう帰って来ない。

 このように鰡は、スバシリに始まってイナ、ボラ、トドと育つに従って名前が変わる出世魚。そのため関東地方では昔は祝魚として珍重され、生後百日目の赤ん坊の「お喰い初め」に用いられた。

 最近は食用魚としてのボラはあまり人気がない。「泥臭い」ためである。鰡は海底の虫や藻などを砂泥と共に呑み込み、それを胃で選り分けて泥を排出する。そのため胃壁が異常に発達して鶏の砂肝のようになる。これが「鰡のヘソ」と言われるもので、塩焼きや醤油で付け焼きにするととても旨い。しかし、魚肉そのものにはどうしても泥臭さが残る。特に東京湾はじめ日本の主要な湾内の海底は一時ほどではないにしてもヘドロが堆積しているから、そこを餌場としている鰡はあまり旨くないというわけである。

 それでも10月も末頃から冬になっての鰡は臭みが取れ、脂が乗って旨くなる。ことに12月から2月にかけて、能登、佐渡、鳥取島根など日本海側で獲れた「寒鰡」を活き締めにして、その日のうちに食べると、「鯛よりずっと旨い」と言われている。

 そういう本物の口福にあずかったことはないが、三浦半島あたりにあがったものでも冬場の鰡はまずくない。内蔵をつぶさぬよう丁寧に下ごしらえし、三枚におろして皮を引き、塩をまぶして冷蔵庫に半日ほど置いて身を締める。それを水洗いして、刺身にして生姜醤油か酢味噌で食べるととても旨い。ことに皮を引いたところに紅がさして、見た目もきれいな刺身である。塩焼きの場合も背開きにしたものに塩を振り、やはり数時間置いてから水洗いして、水を十分拭き取ってから焼く。つまり、鰡は身が柔らかいので、一度締めると旨くなるということのようである。腸を抜いた鰡を筒切りにして、生姜を入れた味噌で長時間ことこと煮込んだ、鯉こくのようなものも旨いと聞くが、これはまだ試したことがない。

 大阪名物の雀鮨も、江戸時代には今のような小鯛ではなく、江鮒と呼ぶ鰡の稚魚スバシリを開いて塩と酢で締め、腹に酢飯を詰め込んだものだったという。腹が膨らんでふくら雀に似ていることから雀鮨と呼んだ。

 しかし何と言っても、鰡は魚よりも魚卵が値打ち物である。鰡の卵巣を塩漬けにして干し固めたカラスミである。江戸時代から越前のウニ、三河のコノワタと共に「天下の三珍」と持て囃された。

 古代ギリシャ、トルコで作られていた保存食品だったものが中国経由で日本にもたらされた。天正16年(1588年)、天主教の教会領だった長崎を直轄地とした羽柴秀吉に代官がカラスミを献上したという話が残っている。秀吉に名前を聞かれた代官は、中国の墨に形が似ていることから咄嗟に「唐墨にござります」と答えたのがこの名の始まりだと言うが、これは確かかどうか分からない。

 とにかくこの頃には長崎近辺では中国人の技術指導もあったのだろうが、カラスミが生産され始めていたようだ。長崎は瀬戸内海や対馬などで育った鰡がトドと言われるほど大きくなって、外洋に産卵に向う際の中継点に当たっており、盛んに獲れた。そのためカラスミの名産地になった。

 鰡は飛魚のように大きな胸鰭がないから飛ぶことはできないが、ジャンプの名手である。秋も深まった頃の夕暮れに波の静かな海岸近くでしきりに飛び跳ねる。これが強い印象を与えるので、秋の季語になったのではないか。尾で海面を強く叩き、ほとんど垂直に1メートル以上も跳び上り、頭を下にして落下する。何のためにこんな運動をするのか、まだその理由は解明されていないようである。

 粋で気っ風が良い若者を昔は「いなせな兄さん」と言った。江戸時代、日本橋魚河岸の若衆の髷の形がイナに似ていたからだとか、彼らの背中の彫り物がイナの背中を思わせるところから出たとも言われる。

 鰡と言い、鯔と言い、とにかく元気よく跳ね回る威勢の良さが好まれたのであろう。俳句でもそのほとんどが鰡の飛ぶことを詠んでいる。


  鰡の飛ぶ夕潮の真ッ平かな   河東碧梧桐
  鰡飛ぶや洲崎の鼻は棒の如   野村喜舟
  鰡跳んで西空の雲遠きかな   右城暮石
  九頭竜の月に鰡飛ぶ泊りかな   伊藤柏翠
  おもむろにさし来る汐や鰡のとぶ   城野としを
  鰡飛んで燈台遠くともりけり   河原白朝
  鰡さげて篠つく雨の野を帰る   飯田龍太
  鯔群るる音の波立ち走るなり   山上樹実雄
  ぼら跳ねて巨大タンカー海坂に   野崎敦子
  鰡跳ねて旧軍港の昼寂と   青木重行

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