秋の雲(あきのくも)

 暑苦しくてなんともやりきれない残暑が過ぎると、いよいよ秋も本格的になり、澄み切った青空が広がる。夏型の天候をもたらしていた太平洋高気圧が、九月半ば頃になると後退し、日本列島上空が移動性高気圧におおわれ、天高く馬肥ゆる季節になる。

 高空には刷毛で掃いたような巻雲(絹雲)やまだら模様の巻積雲が現れる。これが典型的な「秋の雲」である。巻積雲は時として鰯の大群が集まったようにも見え、鯖のまだら模様にも見えるところから、「鰯雲」「鯖雲」あるいは「鱗雲」などと呼ばれる。ちょうどこの頃が鰯や鯖の漁期に当たっており、この雲が出ると鰯が大漁になるというので、鰯雲と呼ばれるようになったとも言われている。

 深い青をバックに白い雲が流れるさまは実に美しい。高く広く晴れ渡った青空に向かって深呼吸すると、誰でも晴れ晴れとした感じになり、なんだか寿命が延びるような気がする。鰯雲や鯖雲ではなく、「秋の雲」と詠んだ場合は、特にこの爽やかで清々しい秋の気分が強調されるようである。

 蕉門十哲の一人である内藤丈草という人は、芭蕉が臨終の枕頭に集まった高弟たちに向かって「これがお前たちに教えてやれる最後の機会だろうから、一句ずつ作ってごらん」と言った時に、『うづくまる薬の下の寒さかな』と詠み、去来、其角、支考等をさしおいて第一等と褒められた。その丈草が詠んだ秋の雲の句に、『ねばりなき空に走るや秋の雲』というのがある。秋の空を「ねばりなき空」と表現したのには、唸るばかりである。入道雲の夏空も、梅雨の中休みの五月晴れも、それなりの気持ちよさがあるけれど、どこか湿気を含んでいる。それに引き替え秋の空はまさにサラサラした感じである。澄み切った空の高みにはかなりの風があるのだろう、白雲が走って行く。秋の空には雲が引っかかるような粘り気など少しもなく、白雲はすいすいと自由自在である。「ねばりなき空」というわずか二語で、秋の爽快な景色と気分を遺憾なく表している。

 秋の雲はこのように爽快感をもたらすと同時に、一抹の寂しさも感じさせることがある。広大な秋空を見上げていると、そのうちに自分ばかりか、何もかもが小さく見えて来るような気分になる。流れる雲を見るにつけ、定めなき浮き世といった想いも湧いて来る。片雲に誘われる遊子の心境である。

 爽快な気分にせよ、やるせない気分にせよ、いろいろなことを考えさせる秋空だが、この晴天はそう長続きはしない。せいぜい三、四日で、しとしとと秋の雨が降る。移動性高気圧とはよく言ったもので、鰯雲など愛でているうちに、すぐに気圧配置が変わり、次の高気圧との谷間に前線が生じ、日本列島に覆いかぶさると、まるで梅雨のような雨続きになる。「秋霖」「秋黴雨(あきついり)」である。その上、九月中旬から十月中旬には台風がしばしばやって来る。

 しかし、変わりやすいからこそ、台風一過の、あるいは秋雨が上がった後の、澄み切った秋空がいっそう際立つのだということもできる。


  飛ぶ鳥をこえて行くなり秋の雲     小林 一茶
  砂の如き雲流れ行く朝の秋       正岡 子規
  秋の雲みづひきぐさにとほきかな    久保田万太郎
  停りてほぐれつつあり秋の雲      高野 素十
  松の幹人を倚らしむ秋の雲       山口 青邨
  秋雲の下そこはかと人住めり      角川 源義
  そよぎあふ草の秀たのし秋の雲     木下 夕爾
  秋の雲立志伝みな家を捨つ       上田五千石
  離れゆくもののひとつに秋の雲     木本 徹男

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