秋の燈(あきのひ)

 「燈火親しむ」「秋燈(しゅうとう)」「燈火の秋」「秋ともし」などとも詠まれる三秋を通しての季語である。「燈火親しむの候」とか「読書の秋」と言われるように、秋の燈という季語には、「春燈」にまとわりついている艶っぽい感じは無くて、勉学や夜業にいそしむという真面目な雰囲気がある。秋燈も春燈も「もの思い」を誘うところがあるが、これも春燈が気怠いような気分を伴うのに対して、秋燈は人生とはなどといった事に思いを致す粛然とした面がある。

 とにかく秋燈は春燈と並んで人気のある季語で、どちらもよく詠まれている。寒く厳しい冬が去って芽生えの季節を迎えた喜びの春、やりきれない暑さをしのいでようやく涼しさを感じてほっとする秋。春と秋とは季節の大きな変わり目だから、燈火に殊のほか感情移入しがちになるのであろう。「夏燈(なつともし)」「冬の燈」という季語もあるが、秋燈、春燈の印象の深さとは比べものにならない。

 秋の夜長を照す電灯は春や夏と比べてきらきらと輝いているように見えることがある。気のせいかとも思うが、空気が澄んできて、実際にそうなるのかも知れない。八月は暦では秋だが、残暑で日中はまだまだ暑い。しかし燈がともる夜ともなればさすがに空気はひんやりした感じになり、精神も爽快になる。テレビばかりではなく、たまには本を読んでみようかという気にもなる。あるいは無沙汰続きの人に手紙でも書こうかと机に向かったりする。時には大ぶりのぐい呑みに冷酒を注いで、ひとりしみじみ枝豆など摘んだりしたくなる。そうした気持を抱かせるのが「秋の燈」であろう。

 よく「秋の灯」「秋灯」と書かれることがあるが、厳密に言うと、それは間違いであるらしい。山本健吉説によると「燈」は「ともしび」を意味し、「灯(てい)」は「盛んに燃える火」だという。つまり「灯」は篝火のようなものを指す言葉のようであり、「(両者は)別字だが、俗間燈の略字が灯だと思っている」と述べている。しかし、漢和辞典を引くとどちらも「ともしび、あかり」としてあり、中には「燈は灯の旧字」としているものもある。

 この二つがごっちゃになったのは元から明の時代というから、既に六百年以上も前から「燈」と「灯」は同じ意味で使われてきたのである。この項では一先ず季語研究の大先達に敬意を表して「秋の燈」としておくが、「秋の灯」でも差し支えないだろう。現に最も売れていると言われる角川文庫の「俳句歳時記」第四版は「秋の灯」「秋灯」としている。「燈」という字はなんとなくいかめしく、軽快を尊ぶ俳句としては「灯」の方がむしろ似つかわしいかもしれない。


  秋の燈やゆかしき奈良の道具市     与謝 蕪村
  秋の燈の糸瓜の尻に映りけり      正岡 子規
  秋燈や夫婦互に無き如く        高浜 虚子
  病間より下げ来し膳や秋燈       中村 汀女
  燈も秋と思ひ入る夜の竹の影      臼田 亜浪
  秋の燈のいつものひとつともりたる   木下 夕爾
  秋の燈や山ふところに邑つくり     大野 林火
  燈火親し琥珀の酒を注げばなほ     青柳志解樹
  秋の灯にひらがなばかり母の文     倉田 紘文
  秋灯下ひらく写楽のきらら摺      岡村 一郎

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