秋風(あきかぜ)

 秋風と一口に言っても、どういう風が秋風なのかはっきりとは定義し難いようである。おおざっぱな言い方をすれば、夏の風が南あるいは南西からの風であるのに対して、秋の風は大陸からの西あるいは西南の風である。吹き始めの頃はちょっぴり涼しく、やがて季節が深まるにつれて肌寒さを感じるほどの冷たさになる。木の葉を色づかせ、やがて吹き落とす風でもある。

 8月の旧盆を過ぎる頃になると大陸に移動性高気圧が発生し、それがだんだんと勢力を増して日本付近に張り出して来る。これが夏型の太平洋高気圧に取って替るようになると、だいぶしのぎやすくなる。その頃に吹くやや涼しい風が秋風であり、平安時代には秋を知らせる風としてもてはやされ、「秋の初風」という歌語もできた。

 和歌でも俳句でも、季節を先取りする傾向がある。微妙な季節変化を感じ取れる繊細な神経の持主でなければ、とても風雅の人とは言えないということなのであろう。というわけで、季節の移ろいを人より少しでも早く感じ取りたい、あるいは感じ取ったゾ、ということを歌や俳句に詠むようになる。ある種の意気がりであるが、こうした稚気でもなければ昔も今も和歌や俳句にうつつを抜かすことはできまい。その結果、気温は夏と変わらない高さなのに、ちょっとした風の変化をとらえては「秋が来た」と詠うのである。

 芭蕉が「奥の細道」の旅で、金沢に着いたのは元禄2年(1689年)7月15日のことであった。今の暦に直すと8月29日である。そこから小松へ向かう途中であの有名な「あかあかと日は難面もあきの風」を詠んでいる。「つれなくも」は、現代では「つれない人」などという使われ方をするが、この当時の語感では「素知らぬふうで」といった意味合いである。この句は「古今集」の藤原敏行朝臣の「秋きぬと目にはさやかに見えねども風のおとにぞ驚かれぬる」を踏まえて作ったもので、「秋が来たというのにお日さまはそんなこと知らぬ顔の半兵衛で、かんかん照りつける。けれども吹いて来る風には確かに秋の気配が感じられますよ」という意味であろう。ここで詠まれている「秋の風」は、初秋の風である。

 これに対して、本当に肌寒さを感じさせる秋風もある。この方が秋風としては本格派かも知れない。たとえば、芭蕉の「物云へば唇寒し秋の風」や、一茶の「秋風や家さへ持たぬ大男」という句は、あきらかに秋もかなり深まった頃の、肌に冷たく感じる秋風である。

 さらにもう一つ、秋は「野分」、すなわち台風シーズンでもあり、とんでもない強い秋風もある。「木からもののこぼるる音や秋の風 千代女」はかなり強い風で、「釣鐘に椎の礫や秋の風 几董」となるともはや台風と言ってもいいくらいの強さであろう。ただし、これらはあくまでも「強い秋風」のレベル(少なくとも感覚的には)で、秋の暴風雨を詠む場合は「野分」という大きな季語があるから、そちらを使うべきであろう。

 とにかくこのように「秋風」にはいろいろあって、とても一まとめにはできない。ただそういう中にも自ずから大きな流れができている。一つは最初にあげた初秋の「秋風」で、暑苦しさともいよいよお別れだという、ほっとした感じと共に爽やかさを詠む流れである。もう一つの大きな流れは漢詩の影響を受けた、いわゆる「秋風蕭殺」の気分、万物皆枯れて行く晩秋の物悲しさを詠む「秋風」である。そして、どちらの「秋風」にも通じている気分は、春風や夏の風にはない「もののあはれ」である。

 また、秋風のことを「色無き風」とも言い、これも季語になっている。これまた和歌からの伝来で、その元をたどれば中国古代の陰陽五行思想に行き着く。五行思想では四季にそれぞれ色を割り当てている。春は草の芽が萌え出づる季節だから「青」で、シンボルとなる聖獣は青龍である。夏は燃え上がるような季節だから「赤」で「朱雀」、冬はすべてが暗く静まり返る雰囲気なので「黒」で水底に潜む「玄武」の季節である。これらに対して秋は「白」で聖獣は「白虎」とされている。白とは本来色の無い透き通るようなものを指し、「素」とも言う。無色透明な寂寥感を漂わせる季節が秋である。そこから秋を「素秋」とか「白秋」、秋風を「素風」と言うようになり、それを大和言葉に翻訳して「色無き風」と言ったのである。

 平安時代から秋のうら寂しさを歌うのに「色無き風」は盛んに用いられるようになった。紀友則の「吹き来れば身にもしみける秋風を色なきものと思ひけるかな」(古今六帖)がその代表例とされている。これが連歌から俳諧へと伝わり、現代俳句でも使われている。確かに、秋の澄み切った大気の中を吹き渡る風は爽やかで、透明感を感じさせ、それを「色無き風」と詠むのは、何となく格好がいい。しかし、あまりにも古臭い感じもつきまとう。

 和歌の世界では万物凋落の厭世観やもののあはれを「秋風」に託して、そのまま歌いあげれば良いが、俳諧ではそれでは満足しない。「身にしみて大根からし秋の風 芭蕉」「十団子も小粒になりぬ秋の風 許六」「がっくりと抜け初むる歯や秋の風 杉風」「秋風にちるや卒都婆の鉋屑 蕪村」というように、同じあはれを詠むにしてもちょっぴり辛子を利かせている。現代俳句でもこの伝統は受け継がれており、秋風の句にはなかなかのものが多い。とにかく昔から人気のある季語の一つである。

秋風

  秋風や屠られに行く牛の尻   夏目漱石
  象も耳立てゝ聞くかや秋の風   永井荷風
  妙高の雲動かねど秋の風   大須賀乙字
  秋風や水に落ちたる空のいろ   久保田万太郎
  吊橋や百歩の宙の秋の風   水原秋櫻子
  ひもじきとき鉄の匂ひの秋の風   山口誓子
  吹きおこる秋風鶴をあゆましむ   石田波郷
  病み跼みゆく秋風は前うしろ   能村登四郎
  仰臥こそ終の形の秋の風   野見山朱鳥
  ゆで玉子むき秋風の貌うつる   大槻紀奴夫

色無き風

  籠らばや色なき風の音聞きて   相生垣瓜人
  梓川白し色なき風の過ぐ   志摩芳次郎
  姥ひとり色なき風の中に栖む   川崎展宏

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