夕焼(ゆうやけ)

 夕焼も朝焼も夏の季語とされている。どちらも夏に限らず秋にも春にも、時には冬にも現れる。しかし、夕焼が最も鮮やかに感じられるのは夏だということで、俳句の世界では「夏のもの」とされた。

 人も犬も木も草もげんなりしてしまう強烈な真夏の太陽が、ようやく山際に隠れようとする頃、西の空が真っ赤に染まる。少し上方にたなびく雲も赤や金色に染まっている。さらにその上の空はまだ真っ青である。時間がたつにつれて、その空がだんだんと濃紺になり、雲の色は千変万化する。地平の赤みも徐々に巾がせばまって、ついには消えてゆく。

 秋の夕焼も風情があるけれど、夕焼の時間がぐっと短くなる。春は清少納言を持ち出すまでもなく、夕方よりは明け方の風情が一番であろう。冬の夕焼はわずかに西の山際が明るくなる程度で、時には赤というより赤黒くて、不気味な感じがすることがある。夏の夕焼はダイナミックで大きな光景を描き出す。こうしたことから「夕焼はやはり夏に限る」ということになったものと思われる。

 「夕焼」が季語として成立したのは明治時代以降、いわゆる近代俳句になってからのようである。江戸時代の俳書や歳時記には夕焼はあまり現れない。ただし、この雄大な自然現象が古代から人々に強い印象を与えていたことは確かで、「風土記」には朝焼、夕焼をひっくるめて『やけ』と称して登場している(山本健吉)。「万葉集」巻一のはじめの方には、中大兄皇子(天智天皇)が『香久山は畝傍ををしと耳梨と相争ひき・・』の長歌に続けて『渡津海の豊旗雲に入日さし今夜の月夜あきらけくこそ』という、夕焼の光景を大らかにうたった歌が載っている。

 ところで万葉時代は、「夕焼」や「夕焼雲」を意味する文字として「霞」を使っていた。我が国最初の漢和辞典と言われる「和名抄」(源順撰、九三〇年代に成立)には「霞、加須美は赤気の雲」とある。江戸時代の碩学瀧澤馬琴も、我が国で「かすみ」と呼んでいるものは漢土では「霞」ではなく「靄」と書くのだと述べている。

 このように奈良時代には、大和言葉で「かすみ」と呼ぶ現象は今日と同じく霧状に立ちこめる春霞を指し、「靄(アイ=もや)」という字を宛てていた。「霞」という漢字は原義通りに「赤い雲」すなわち「夕焼、朝焼」の意味で使っていた。それがいつの間にか、日本語の「かすみ」、つまり春に立つ靄のような霧のようなものに「霞」の字を宛ててしまった。そして朝夕に空の端が赤く染まる現象は「夕焼」「朝焼」という日本語で呼ぶようになった。

 しかし中国では今日でも「霞」は朝焼夕焼を指す。我々日本人が頭に描く「霞」は馬琴が述べているように春の「靄」だから、中国人と話をしていると混乱する。もうかなり以前のことになるが、中国旅行の際に世話になった旅行社の女性社長がくれた名刺に張麗霞とあった。「きれいな名前ですね」とお世辞を言ったものだが、その時こちらの脳裡に浮かんだのは麗かな春霞が立つ景色であり、褒められた麗霞さんの頭の中には壮麗な夕焼雲がたなびく故郷五丈原の光景があったらしい。

 夕焼や朝焼が起るのは太陽光線が空気や空中に漂う微粒子にぶつかって散乱するからだという。太陽が低く傾き、光線が地平線を這うように進むようになると、波長の短い青い方の光は我々の目に届くまでに散乱現象によって消えてしまい、波長の長い赤い光だけが届く。そのため西の地平線に近い所ほど真っ赤に見え、上空にゆくに従って橙色、黄色、灰色、青色に見える。

 西の空が雲に覆われて太陽光線を遮ってしまえば夕焼は発生しない。つまり夕焼が起る時は西方に雲量が少ないわけで、「明日は天気」ということになる。

 現代俳句では夕焼の句は非常に多い。西の空が赤々と燃え上がる印象が強烈なせいか、生と死を連想させるような句、寂しくて少しばかりロマンチックな気分の句、これからちょっぴり涼しくなるのだというくつろいだ気分の句が目につく。


  夕焼や生きてある身のさびしさを     鈴木 花蓑
  夕焼けて西の十万億土透く        山口 誓子
  夕焼のさめゆけばはやいなびかり     山口 青邨
  夕焼は膳のものをも染めにけり      富安 風生
  谷は夕焼子は湯あがりの髪ぬれて     長谷川素逝
  物として我を夕焼染めにけり       永田 耕衣
  夕焼の金をまつげにつけてゆく      富澤赤黄男
  夕焼へ叱りすぎたる子の手執り      大野 林火
  大夕焼消えなば夫の帰るべし       石橋 秀野
  瀬戸夕焼平家不幸と誰が決めし      三好 潤子

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