夕立(ゆふだち)

 芭蕉の高弟榎本其角(後に宝井其角。寛文元年[1661]─宝永4年[1707])に「ゆふだちや田を三巡りの神ならば」という句がある。其角が弟子達を引き連れ墨田区向島の三囲神社に出かけた折り、近くの農民たちが神前で雨乞いをしているのにぶつかり、頼まれてこれを詠んだところが翌日雨が降って大評判になったという逸話付きの句である。

 これは其角の句集の決定版とも言うべき「五元集」に載っており、「牛島三遶の神前にて雨乞するものにかはりて」という前書が付けられている。三囲神社の祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)でいわゆるお稲荷さんである。江戸時代には商業の神様としても信仰され、三囲神社も人気を集めたのだが、元々は農業神である。この句もそれを踏まえて「百姓たちがこんなに雨を欲しがっています。この神社に祀られているのは田を見巡る神様だというから、せめて夕立など降らせてくださるに違いあるまい」と詠んだものであろう。「三囲」神社と「田を見巡る」の語呂合わせであり、五・七・五の頭に「ゆ・た・か」すなわち五穀豊穣の「豊か」を詠み込んだたところが其角らしい機知である。

 一方、五元集より二十四年も前の享保8年(1724年)に出版された「其角十七回」(十七回忌追善句集)には、「晋子(其角の別号)船遊びに出て、人々暑をはらひかね『宗匠の句にて雨ふらせたまへ』とたはぶれければ、……(中略)〈ゆふだちや田も三巡りの神ならば〉いひもはてず、雲墨を飛ばし、雨声盆をくつがへすばかり、船をかたぶけける事まのあたりにありけり云々」としてある。こちらの方は向島へ仲間と遊びに出かけた時の座興の句が、本物の雨が降って大騒ぎになったという話である。「田を」と「田も」の一字違いだが、句意はほとんど同じである。この句を作るに至ったきっかけが異なるわけだが、どちらが本当だったのかはともかく、この句を詠んで間も無く待望の雨が降ったのは事実だったようである。句そのものよりも、前書の方が面白い。

 当時の江戸の夏はやり切れないほどの暑さだったようである。江戸という都会は、今のようにコンクリート・ジャングルのヒートアイランド現象とは無縁の、ちょっと足を伸ばして向島あたりに行けば田圃や畑が連なる緑豊かな田園風景が広がっていたが、町中はそうはいかない。ことに下町は町家が軒を接し、道は舗装されていないから、日照りが続けば砂埃が立つ。水は貴重だから時代劇で見られるようにしょっちゅう撒いてばかりもいられない。江戸っ子が自慢していた水道というのも、地中に埋めた木樋を通って来るのを長屋の共用井戸に引き込んだものだから、泥臭く、時にはミミズやいろいろな虫が入っていたりしたという。だからこそ夏になると、水売りや麦湯、心太売りなどが繁盛した。

 というようなわけで、一天にわかにかき曇り、雷鳴と共にザーッと降って来る夕立は大歓迎されたようである。半刻(一時間)ほどでさっと降りやむと、爽やかな夏空が戻って来る。あたりはすっかり涼しくなって、埃まみれだった町並みも洗われて清々しい。冷蔵庫もクーラーも無い時代、夕立はまさに天の恵みであった。

 そのかわり、いきなり降り出す驟雨はいろいろな悲喜劇も生む。まず大概の庶民は着替えの衣服など持たず、いわゆる着た切り雀が多かったから、ずぶ濡れになっては翌日に差し支える。だから、ぴかぴかっと来てざあっと降り出したら、一目散に逃げ出す。広重の江戸名所百景「大はしあたけの夕立」には、橋の上で夕立にあった人たちが背中を丸め、薦をかぶり、裾を乱して慌てふためく様がありありと描かれている。こういう時にはどこの家の軒先に飛び込んでも許された。いなせな若者がたまたま駈け込んだ軒先が囲われ者の住いで、それが縁で、というような話が芝居にも落語にもたくさんある。

 其角を冒頭に出したついでに、其角の夕立の句をもう一つ紹介すると、「夕立にひとり外みる女かな」というのがある。突然、猛烈な勢いで降って来た夕立を、縁先に女がひとり立って見つめている。あまりの雨足の激しさに魂を奪われてしまったかのように、呆けた表情である。これも若い女、おそらく粋筋ででもあろうか。沛然たる驟雨に見とれてエクスタシーの境地に浸る女性。こういう構図はまさに鈴木春信の世界だが、其角は春信の活躍するより半世紀も前にそれを描き出している。とにかくこの句はいかにも江戸っ子其角の面目躍如たるもので、三囲の雨乞いの句を抜くこと数等であり、夕立の情趣を実によく伝えている。

 「夕立」は古来人々に強い印象を与え、万葉集にも歌われ、今日でも俳句や短歌に盛んに詠まれている。激しい降り様と、去った後の爽やかなありさまの両様が句になっている。「ゆだち」「白雨」「驟雨」などとも使われ、夕立の前兆である異様な積乱雲を取り上げて「夕立雲」とも詠まれ、過ぎた後の爽やかさを詠むための「夕立後」「夕立晴」という季語もある。


  夕立に走り下るや竹の蟻   内藤丈草
  夕立や草葉を掴むむら雀   与謝蕪村
  夕立や打さしの碁を崩しける   夏目成美
  夕立や砂に突き立つ青松葉   正岡子規
  祖母山も傾山も夕立かな   山口青邨
  吊橋を渡る夕立の濡らせしを   大野林火
  蓬生に土けぶり立つ夕立かな   芝不器男
  木曽下り一の難所の大白雨   鈴鹿野風呂
  夕立が洗っていった茄子をもぐ   種田山頭火
  夕立の我駆け一家五人駆け   上野泰

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