初夏の野山が新鮮で美しいのも若葉のお蔭である。樟や椎木など常緑樹の濃い緑の枝先に萌え出す黄緑の若葉も綺麗だし、冬中すっかり葉を落していた落葉樹が一斉に新緑の葉を茂らせると、山全体がまるで新しい着物をまとったように見える。
野原の草の芽が伸びて緑を増し草若葉(これは春の季語)となるのもみずみずしい感じだが、それよりやや遅れての木々の若葉はまさに典型的な初夏の風景で、これを眺めているだけで元気になるような気分になる。
この「再生」の気分を味合わせてくれる若葉は古来人々を大いに喜ばせ、詩歌の題材に取り上げられた。俳句の世界でも「あらたふと青葉若葉の日の光 芭蕉」「不二ひとつうづみ残して若葉かな 蕪村」「国ゆたかに見ゆる若葉の関路かな 白雄」というように大らかにこの季節をうたった句が多い。
芭蕉の日光での句は「青葉若葉」と重ねることによって、淡緑濃緑の色彩変化を表したものだと言われている。「あらたふと」は、東照宮に対しての畏敬の念と言うか、多分にご挨拶といった気分がうかがわれるが、同じ芭蕉が唐招提寺で鑑真和上像を拝した時に詠んだ「若葉して御目の雫拭はばや」からも受け取れるように、昔の人たちは若葉には新鮮さと共に、一種の霊力や神聖さを感じ取っていたのではないか。
近現代の俳人は若葉に神々しさを感じ取るほどではないが、やはり若葉という季語の持つみずみずしさ、周囲の空気まできれいになる感じ、身体がはずむような躍動感、そして、そういう気分に浸れる幸福感をうたい上げる佳句をたくさん生み出している。
一口に若葉と言っても、木によって色彩や感触はさまざまである。特に若葉が美しい木の名前を冠して「柿若葉」「樟若葉」「椎若葉」などと個別の季語が立てられている。また楓は秋の紅葉と並んで初夏の新緑が実に鮮やかなところから、特別な「若楓」という季語になっている。さらに山全体が新緑に包まれた様子を言う「山若葉」、谷を埋める「谷若葉」、この季節を言う「若葉時」、晴天を「若葉晴」、曇天を「若葉曇」、雨が若葉の色を一層際立たせる「若葉雨」という言い方もある。
なお似たような季語に「青葉」があるが、この方は若葉よりは少し季節が進み、葉の緑が濃くなった頃の新緑を言う。江戸時代にも「はっきりと亡き人かなし青葉山」という立花北枝の句もあるが、青葉が季語として定着したのは明治大正以降のことである。
絶頂の城たのもしき若葉かな 与謝蕪村
ざぶざぶと白壁洗ふ若葉かな 小林一茶
若葉して家ありしとも見えぬかな 正岡子規
若葉して手のひらほどの山の寺 夏目漱石
目を病むや若葉の窓の雨幾日 森鴎外
湯つかれを若葉の風に寝たりけり 五百木瓢亭
古本の本郷若葉しんしんと 山口青邨
若葉透く日にはなやぎて妻の客 長谷川双魚
水晶の念珠に映る若葉かな 川端茅舎
若葉雨なにかやさしくものを言ふ 西島麦南