梅干(うめぼし)

 常備食品の梅干が夏の季語とされているのは、梅の実の収穫から漬け込み、土用干しまで、製造時期が夏だからである。昔は田舎はもちろんのこと、都会地でも夏の梅干づくりは欠かせない年中行事だった。

 梅干は日本人の食生活に深く馴染んだ貴重な保存食品である。蕪村の愛弟子黒柳召波に「梅づけにむかしをしのぶ真壷かな」という句がある。漬け上げて十分に土用干しした梅干は長期間保存が利く。この句も出来上がった梅干をいとおしむように唐渡りの真壷(まつぼ)に入れたりしている。この壷を見るにつけ遙か昔のことが思い出されるなあという感じであろうか。梅干は郷愁を誘う食べ物でもある。

 梅干(梅漬)も元々は中国から伝わった食品のようである。中国では紀元前から梅漬を燻製にして干したものを烏梅(うばい)と称して薬にしてきた。解熱、咳止め、去痰、吐き気止め、下痢止め、蛔虫駆除などの効能があるという。中国湖南省長沙市で1970年代前半に発掘された西暦前200年頃の馬王堆墳墓から梅干あるいは烏梅が入っていたとみられる壷が見つかっている。

 梅干、烏梅が中国からもたらされると、日本にも梅の木がたくさんあるから、すぐに国産梅干が生まれたようだ。梅を塩漬けすると梅酢が採れるが、最初はむしろこの方が珍重されたという説もある。

 梅酢は上等な調味料として用いられただけでなく、食品保存料や消毒薬にもなった。さらには金属メッキに欠かせない薬品としても使われた。奈良・東大寺の大仏(749年完成)は銅像の上に金メッキをほどこしたものだが、このメッキ加工は水銀で金を溶かした溶液(アマルガム)を銅の地肌に塗り、火で熱して水銀を蒸発、金を蒸着させる方法を採った。この際に銅の地肌を梅酢で十分にぬぐっておくとメッキの仕上がりが良くなるので、梅酢が大量に使われたのだという。とにかくこのように貴重な梅酢を採ったあとの残りかすである梅の実も捨てるのはもったいない。十分に塩辛く酸っぱいから、おかずにしたり味付けに使ったりしているうちに、いつの間にかこちらの方が主役になった。

 梅干は何故か米の飯と相性がいい。パンと梅干ではどうにもならないし、中国人の常食である饅頭(マントウ)とは合わないことはないが良い組み合わせとは言えない。ところが米の飯となれば、梅干をたった一つ載せて香ばしい番茶を注げば素晴らしい茶漬けになる。梅干を入れて握った握り飯があれば、かなりの強行軍にも耐えられる。

 というわけで梅干は奈良平安の昔から日本人の食生活に無くてはならないものとして珍重されてきた。特に戦国時代には武士の戦場への携行食として必需品になった。握り飯に入れたのはもちろんのこと、傷の消毒、食中毒や伝染病の予防薬ともされた。これは連綿と受け継がれ、第二次大戦中になると、米飯に梅干を一つ埋め込んだ「日の丸弁当」が大和魂の象徴とまでされるようになった。昭和16年(1941年)12月8日、日本は無謀な対米英戦争(大東亜戦争)に突っ込んだ。政府は翌17年1月、「宣戦ノ大詔ヲ渙発アラセラレタル日ヲ挙国戦争完遂ノ源泉タラシムル日ト定メ……」(閣議決定の発表文)として毎月8日を「大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)」と決め、学校では国旗掲揚、宮城遙拝、御真影に最敬礼し、昼は「日の丸弁当」と一方的に決めつけられた。ところが2年ほどで本土空襲が激しくなり、米の配給も滞りがちになって、弁当を持って来られない子が続出するという始末で日の丸弁当はどこかへ消えてしまい、無惨な敗戦日を迎える。

 戦後もしばらくは極端な米不足で、サツマイモと梅干ではどうにもしようがない。それに塩も貴重品だったから梅の実はあっても漬け込めないという時期が続いた。昭和30年代になって世の中が落ち着いて来るにつれ、梅干が出回るようになり、また家庭での梅干づくりが盛んに行われるようになった。

 梅干にする実はちょっと黄色みがかってきたところが良い。梅酒には青梅が良いが、梅干にはあまり未熟な実だとがりがりした感じでうまく漬からないことがある。さりとて柔らかくなるほど熟してしまうと、漬けている間に皮が破れてしまったりする。虫食いの跡や傷の無い、張り切った感じの実を選ぶ。

 梅を一晩水にさらし、ザルに上げて風通しの良いところに置いて乾かす。梅が乾く間に漬け込む容器を準備する。ホーロー製あるいは陶磁器のカメがいい。内側に熱湯を注いで殺菌し、できればガーゼに35度の焼酎(果実酒用ホワイトリカー)を含ませ、容器の内側をぬぐっておく。

 いよいよ漬け込み。梅の実の重量の20%の塩をボールに取って手元に置く。まず容器の底に塩をぱらぱら振って、梅を一段並べ、塩をぱらりと振って二段目の梅を並べ、また塩を振って三段目という具合に積んで行く。全部終わったら最上段には少し多めの塩を振り、押し蓋をかぶせ、梅の実の重量の1.5倍から2倍の重さの重石を乗せ、ゴミなどが入らないように上から包装紙などかぶせて紐で縛って完了。

 2、3日で梅の実の中段くらいまで透明な液体が上がっているはずだ。これが梅酢である。この時点では押し蓋からはずれて重石の重量がかからず、元のままの形状の梅の実もある。そこでよく洗った手にさらに焼酎をかけて消毒し、漬け込んだ梅の実を一旦きれいなボールに取り出し、容器の中に並べ変える。この時、梅酢の出具合が良くない場合は、呼び水に焼酎を適当に振りかけておく。ついでに底にたまった塩を溶かすようにかき混ぜる。こうすると1週間か10日たつうちに梅酢が増え、漬けた梅はややしぼんで梅酢にすっかり隠れるようになる。この間、毎日一回、容器ごと静かに揺すって、梅全体に梅酢がかかるようにしてやれば万全だ。ここまでくれば成功疑いなし。重石を半分から3分の1に軽くする。

 このまま漬け込んで7月下旬の土用に三日三晩干し上げれば、関西地方に多い白っぽい上品な梅干しが出来る。関東風の赤い梅干が好みなら、梅酢が十分に上がった頃合いに赤ジソを入れる。梅一キロ当たり赤ジソ一束くらい入れるとかなり赤い梅干になる。まず買って来た赤ジソをちぎってよく水洗いし、擂り鉢に入れ、たっぷりの塩を振り込んでぎゅうぎゅう揉む。赤黒いアク汁が出て来るからそれをぎゅっと絞って捨てる。こうしてアク出しして丸まった赤ジソをほぐし、そこに梅漬けのカメからすくった梅酢をかけて揉むと鮮紅色に発色するから、それを梅漬けの中に入れる。

 白漬けにせよ赤ジソ漬けにせよ、こうして土用まで置いた梅はすっかり漬け上がっている。これを大きなザルや竹簀の上に並べる。一日干したら丁寧に一つずつ裏返し、まんべんなく日光を当てる。これが大変な作業である。汗が噴き出して来る。二キロや三キロの梅ならまだいいが、それ以上になると作業の途中で目が回りそうになる。夜干しも大切だからそのまま外に出して置くのだが、万が一雨に遭えばこれまでの苦労は水の泡になってしまうから、夜中に雨が降っていないかどうか注意せねばならない。

 三日三晩の土用干しを済ませると、梅干はしわしわになって完成。広口のガラス瓶や壷に入れて密閉すれば100年でも200年でも保つ。少し柔らかめの梅干にしたければ、貯蔵容器に入れる時に梅酢にさっとくぐらせると、1週間もすればしっとりとしたものになる。赤ジソを一緒に漬け込んだ場合は、それも土用干しして置き、乾いたものを梅酢に潜らせて、梅干の上にかぶせるようにしておくと良い。梅干がしっとりと保たれる。夏場などこのシソを細かく刻んで、炊きあげた飯にチリメンジャコと一緒に混ぜ込むと美味しいジャコ御飯が出来る。

 梅干づくりは難しくない。ただし、漬け込む時に容器を消毒し、しっかり塩をしてカビを生やさないこと。土用干しを辛抱強くやること。この二つを守れば必ずうまく行く。

 こうして出来上がった梅干は非常に塩辛くて強烈な酸味がある。これぞ純正梅干なのだが、近頃はどういうわけか「減塩」がもてはやされる。「塩分5%の減塩梅干」などというのが、あたかも優良品であるかのように店頭に並んでいる。しかしそれは全くのインチキである。

 1キロの梅に50グラムの塩では梅酢は絶対に上がらないし、必ずカビが生えてしまう。大量の焼酎を入れるか、防腐剤でも入れない限り梅干はできない。「5%」と表示している梅干は、一旦20%以上の塩で漬け込んだものを水に浸けるなどして塩抜きし、味が抜けてしまったのをごまかすために防腐剤入りの調味液や蜂蜜などにもう一度漬け直したものである。特にこういう製品は中国などで漬け込んだ梅干を輸入して日本で塩抜き再加工したものが多いという。原料の梅干は中国産なのだが、再加工して最終製品にするのは日本だから国産ということになるようだ。こんなもので握り飯を作ったら、梅干の回りから腐り始めてしまいそうだ。

 「梅干」を詠んだ句は古来梅干そのものではなく、すべて「梅干す」情景にからんだものばかりである。一年中食卓に登場する梅干には季感がなく、夏場の梅干づくりだけに詩情ありとして季語としたためであろうか。しかし現代人にとっては、それも都会に住む者にしてみれば、梅干は買って来るもので作るものではなくなっている。さらに梅干の存在感は、夏場のハイキングの折りなどに頬張る握り飯の梅干の心地よい酸味、あるいは夏の朝の一服の茶と共に含む梅干の美味しさなどにあるのではなかろうか。梅干そのものを詠んだ句が続々と現れて欲しいものだと思う。


  梅干すや庭にしたたる紫蘇の汁   正岡子規
  梅干にすでに日蔭や一むしろ   河東碧梧桐
  梅干のやや皺出来て干されけり   高浜虚子
  梅干してあたりにものの影もなき   富安風生
  夜干梅冷やかなるを見ていねし   萩原麦草
  梅干舐む炎天遠く出でゆくと   西東三鬼
  梅漬ける甲斐あることをするやうに   細見綾子
  干梅の上を念仏流れけり   田川飛旅子
  動くたび干梅匂ふ夜の家   鈴木六林男
  梅干すや三日三晩の息づかひ   久常多喜子

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