団扇の歴史は非常に古い。古代エジプト遺跡の壁画には貴人の傍らに侍る従者が羽団扇を掲げている図柄があるし、古代中国の建物や墓の壁にはめ込まれたレンガ板、磚(せん)にも同じような絵がある。日本でも弥生時代の墳墓から木製の団扇らしいものが出ている。
考えてみれば団扇というものは自ずから生れる必然性のある道具であった。扇風機もエアコンも無かった大昔、真夏の暑い盛りには我々のご先祖様だって「暑い暑い」と、手をひらひらさせていささかの風を頬に送りながらぼやいていたのではないか。手近に木の枝や板きれでもあれば、そんなものをつかんでぱたぱた扇いだりしたこともあったに違いない。風量を増すために、それを薄く扇状にする工夫が施されるのは当然の成り行きであった。
古代の団扇は孔雀など大きな鳥の羽根や芭蕉の葉、ヤシ科植物のビロウやシュロの葉を糸でかがったもの、あるいは薄い板などで作られた。王侯貴人は長い柄をつけた大きな団扇を従者に持たせ、左右から扇がせた。涼をとるのと同時に、夏場に多い蝿や蚊やその他もろもろのうるさい虫を除ける役目も果たした。もちろん王様もお妃も小型の団扇を手にした。それらは貴人が持つにふさわしく、美しく飾られ、やがてそれが支配者の標しとなる。日本の戦国武将が持つ軍配は中国から伝わったものが日本式に改良されたものだが、その元をたどれば団扇であったに相違ない。今でも大相撲の行司が持っている軍配を「ウチワ」とも呼ぶ。
日本にも団扇はもしかしたら縄文弥生の大昔から自然発生的に存在したのかも知れないが、豪華な完成品としての団扇は飛鳥時代に中国から輸入され、朝廷を中心にもっぱら上流階級の調度品として用いられた。それがだんだんと民間にも伝わり、やがて夏場の必需品になっていった。初期のものは鳥の羽根や薄い板や植物の葉を繋ぎ合せたものだったらしい。天狗の羽団扇のようなものであっただろう。今日あるような竹の骨に紙を貼った丸い団扇が作られるようになったのは室町時代になってからのことだという。
それより前、平安時代に入った頃、扇子というものが生れた。もしかしたら団扇が壊れてばらばらになってしまったものを修繕しているうちに考えついたものかも知れない。幅の狭い薄板を何枚か重ね、下端を金具か紐で留め、開閉自在にした「携帯団扇」である。男性用は白木の檜扇(ひおうぎ)で、日常、朝廷に出仕する時に笏(しゃく)の代りにこれを持った。女性用は檜扇に金銀紅緑の絵具で鮮やかに彩った衵扇(あこめおうぎ)を持つのが礼儀だった。
こうした板扇は涼をとるための道具という一面もあったが、むしろ儀礼用の調度品としての役割が大きかったようである。やがてこれが室町時代になると、板扇に代って竹骨に紙を貼った現在と同じような扇子が登場、儀礼とお洒落をかねた貴族の調度品となり、同時に涼をとる実用品ともなった。とにかく扇子は日本人の創案で、室町時代の貴族の間で大流行、これが中国に輸出され、そこから全世界に広まって行った。
その当時、紙はまだ貴重品だったから、団扇も扇子もまだまだ上流階級のものだった。やがて扇子は主に貴族や上級武士階級の用いるものとなり、団扇は武士や富裕町人のものというように分化していった。そして江戸時代に紙の生産量が増大するとともに、団扇は庶民階級に一気に普及した。
団扇には涼しげな絵が描かれ、町民文化が花開くとともに、川開きの花火見物、夕涼み、蛍狩り、盆踊りなどさまざまな場面で無くてはならない小道具になる。来客にはお茶とともに団扇を差し出すこともよく見られる風景になった。江戸時代も後期になると、目端の利く商人が表面に美人画などを印刷し、裏に商品名や屋号を刷り込んだ団扇を得意先に配るということを始めた。団扇が優れた広告媒体になったのである。歌麿、北斎、広重など有名浮世絵画家たちも競って団扇絵を描いている。
一方、団扇は火起し道具としても重要な働きをした。竃の火を起す道具として火吹竹とともに用いられ、炭火を熾したり、魚を焼く時に上からあおいだりもする。この台所用には丈夫な骨の上に丈夫な紙を貼り、柿渋を塗ってさらに耐久性を高めた渋団扇という専用品が開発された。
このように団扇は千数百年もの長い間日本人に親しまれてきたのだが、昭和四十年代以降、扇風機やエアコンが各家庭に普及するに従って、急速に姿を消して行った。それが最近またぞろ人気回復だという。どうやら若い女性の浴衣ブームにつれて起った現象らしい。夏場の繁華街やターミナルでは宣伝媒体の団扇を盛んに配っている。ただ、この団扇はもはや竹骨を丹念に広げて作ったものではなく、プラスチックの骨である。中には骨など無くて、固い厚紙を丸く切って、指を突っ込む穴を開けただけの、すぐにゴミとして捨てられそうなものもある。
扇子(扇)がやや儀式張って、上品に澄ました感じがするのに対して、団扇はいかにも庶民的でざっくばらん、くつろいだ感じがする。当然ながら俳句でも扇と団扇の詠み方にはそうした違いが自ずから出てくる。たとえば蕪村は、「目に嬉し恋君の扇真白なる」と優雅に詠み、団扇となると「後家の君黄昏貌のうちはかな」とぐっとくだけている。
月に柄をさしたらばよき団扇かな 山崎宗鑑
団扇にてあふがん人のうしろつき 松尾芭蕉
後家の君黄昏貌のうちはかな 与謝蕪村
月明の畳にうすき団扇かな 原 石鼎
手にとりて思はぬかろさ初団扇 松村蒼石
宵といふうつくしき刻団扇手に 勝又一透
戦争と畳の上の団扇かな 三橋敏雄
顏よせて団扇のなかの話かな 下田実花
団扇風かろんぜらるることばかり 小林康治
絵団扇や貴船は今も山の中 波多野爽波
聞き役にまはり団扇の風送る 森野経子