月見草

 いま私たちがツキミソウと呼んでいる黄色い花は「待宵草」である。本来の月見草は白い花で、幕末に日本にもたらされた北米原産の植物である。待宵草の近縁種で、夕方に白色四弁の清楚な花を咲かせ、明け方になるとしぼんで淡紅色になる。その可憐なさまが好まれて幕末から明治時代には園芸品種として栽培されたが、待宵草のように丈夫ではなく、日本の風土には合わなかったのか、野生化することなく、今ではほとんど見られなくなってしまった。

 これに変って我が国古来の植物のようにすっかり溶け込んでいるのが待宵草である。やはり幕末嘉永年間に渡来した南米原産の帰化植物。山野や河原の石ころだらけの地面にしぶとく自生し、直立した七〇センチほどの幹には線形の葉を互生し、五月から七月頃にかけて葉腋に鮮やかな黄色の四弁花を次々につける。やはり夕暮に咲き始め、明け方になるとしぼんでオレンジ色になる。

 月見草、待宵草よりやや遅れて、明治時代になってから入って来た大待宵草というのもある。この原産地は不明だが、待宵草によく似ている。ただし待宵草よりずっと背が高く、時には一メートルを越えるものもある。花も待宵草より一回り大型で直径八センチくらいある。この方は海岸や河原の砂地を好むようである。

 「富士には月見草がよく似合う」と大宰治が眺めた月見草は多分、待宵草であろう。とにかく俳句でも小説でも月見草、待宵草、大待宵草はごっちゃにされている。「開くとき蕊の淋しき月見草 高浜虚子」は本来の月見草か待宵草かはっきりしない。「月見草萌ゆるを見たり崎のはてに 水原秋櫻子」はその咲いている場所からして大待宵草であろう。「月見草灯よりも白し蛾をさそふ 竹下しづの女」はもしかしたら月見草かも知れない。「ふもとまで浅間は見ゆる月見草 今井つる女」はごく一般的な待宵草に違いない。

 荒地でもなんでもしぶとく生き延びる待宵草。地面にロゼット状の葉を貼り付けるようにして冬にも枯れない大待宵草。どちらもなかなかどうして一筋縄ではくくれない植物だが、薄い花びらが夕暮の中にはらりとほころびる風情が実にしおらしい。ツキミソウと言い、マツヨイグサと言い、その言葉の響きも何となく哀調を帯びたロマンを感じさせる。そんなところから大正頃から盛んに句に詠まれるようになった。ただしほとんどすべてが「月見草」の句で、「待宵草」を詠んだ句は見当たらない。六音が作りにくいせいかも知れないし、月見草という呼称があまりにも行き渡ってしまったせいかも知れない。


  月見草墓前をかすめ日雨ふる   飯田蛇笏
  月見草はなればなれに夜明けたり   渡辺水巴
  松の根も石も乾きて月見草   中村汀女
  月見草蛾の口づけて開くなる   松本たかし
  月見草はらりと地球うらがへる   三橋鷹女
  夢の世の右枕して月見草   磯貝碧蹄館
  紅さしてきし真夜中の月見草   青柳志解樹
  吊ランプもたらす女月見草   大木格次郎
  月見草夕べを過去としてしぼむ   甘田正翠
  月見草夕べ誰かの来る予感   栗本秀子

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