トマト

 南米のペルー、エクアドルが原産で、千年ほど前にメキシコでアステカ人たちが栽培品種を作り出したと言われている。一五二三年のスペインによるメキシコ征服で、ヨーロッパに持ち帰られ、スペイン、イタリアをはじめ欧州諸国、イギリスなどの貴族の間で観賞用に栽培された。日本へ来たのも意外に早く、一六七〇年頃、スペイン人やポルトガル人によって、フィリピン経由で長崎にもたらされた。「大和本草」(一七〇九年刊)にはちゃんと記載されている。もっとも食べられるようなものではなく、蕃茄(ばんか、あかなす)と呼ばれ、珍奇な鉢植えとして一部の好事家が育てていただけらしい。

 明治初年になると開拓使によって欧米から食用品種が導入され、「赤茄子」の名前で栽培が奨励されたが、独特の臭みが嫌われ、さっぱり普及しなかった。「蕃茄の南蛮臭きを嫌ひけり 四沢」という句があるくらいである。大正時代に入って北海道、愛知県を中心にトマト栽培が増加し始め、横浜近郊でも外国人や洋行帰りの新知識人を目当てに作られるようになった。

 しかし、日本人の誰もがトマトを食べるようになったのは第二次大戦後のことである。進駐軍の多くはアメリカ人であり、彼らの舌には味蕾が無いのかと思うほど、何でもケチャップを塗りたくる。一方、当時の日本はアメちゃんのものは何でも上等とされ、彼らのやることは何でも良しとされていた時代だから、ケチャップがわっと広まった。自ずとその原料であるトマト栽培が盛んになり、生食も一般化した。

 トマトの消費量が増えるにつれて、より大型で食味の良い品種が作られるようになった。しかしこれが行き過ぎて、近頃のトマトは見た目の良さと甘味ばかりが強調されて、独特の匂いと酸味が消えてしまった。

 私が生れ育ったのは横浜の郊外三ツ沢というところの山である。今では横浜が広がって、昔は狸しか住まないところに地下鉄が走り、私鉄が伸びて、田園都市などと呼ばれるようになり、私の住んでいる地域はいつとはなしに市の中心部になってしまった。とにかくその三ツ沢の山で父親が植物園をやっていたせいで、昭和の初めから珍しい作物がいっぱい育てられていた。もちろんトマトもあった。もぎたての真っ赤に熟れたトマトを冷やしてかぶりつくと、口中に甘酸っぱい果汁が広がり、青臭い匂いが鼻腔に抜ける感触が何とも言えないものであった。今ではどんなに良さそうなトマトを買って来ても、あの食感は甦って来ない。

 仕方がないから自分で栽培することにした。ところがトマト作りは厄介である。一旦、育ち始めるとやたらに伸びる。枝の一つ一つから脇芽が出て来る。数日放っておくと、その脇芽が伸びてだらしなくはびこる。二週間も手入れしなければ、それぞれの枝が勝手な方向に伸びたり垂れ下がったりして手がつけられない。元来、トマトという植物は地面を這い回り大きくなるものなので、原産地のアンデス地方やイタリアでは支柱などは立てずに伸ばし放題で作っている。しかし無理な品種改良をした我が国のトマトはひ弱であり、そんな乱暴な作り方をすれば、すぐに病害虫に侵されて駄目になってしまう。そこで何本も支柱を立て、丁寧に脇芽を欠いて茎を三本立ちにして、三方に誘引してやる。

 花が咲いて実がついてからも手数がかかる。いくつも成ったもののうちから適当なのを残して摘果する。三つに減らし、二つにし、最後に一つにと気を使う。こういう苦心をはらって大きくしても、雨が多かったりすると尻腐れ病というこわい病気にかかってしまう。農薬は使いたくないから、病気にかからぬよう混み合った枝葉を透いてやらねばならぬ。それやこれやの挙句、ようやく尻の方から赤らみ始めた。やれ嬉しや、明日はいよいよ収穫だ。

 そして翌朝、生唾を呑み込みながら採りに行くと、無惨、一足先に小鳥につつかれてぐしゃぐしゃになっているのだ。

 トマトの俳句は、戦前のものは「蕃茄」と書いて「トマト」と読ませたり、あるいは「ばんか」とそのまま読ませたり、「あかなす」と昔風にルビを振ったりしたものが目につくが、現代の俳人はさすがに片仮名でトマトとしている。


  白昼のむらくも四方に蕃茄熟る      飯田 蛇笏
  一片のトマト冷たきランチかな      野村 喜舟
  トマトもぐ手を濡らしたりひた濡らす   篠田悌二郎
  紅たつやとりどり熟れしトマト園     石田 波郷
  蕃茄のそろへる臀の露けしや       青木 敏彦
  熟れすぎのトマトは強き日の匂ひ     大星 雄三
  トマト洗ふ蛇口全開したりけり      本井  英
  海よりの日を総身にトマトもぐ      福西 正幸
  熟れすぎのトマトは強き日の匂ひ     大星 雄三
  トマト食ふ妊りし唇ためらはず      榛原アイ子

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