鮓(すし)

 鮓、鮨、寿司、寿し、といろいろな表記があるが、東京近辺で「すしを食べよう」と言われれば、大概の人が握り寿司を思い浮かべる。しかし「にぎり」は文政年間(一八一八-一八三〇)に江戸で一般的になった食べ物であり、まだ二百年足らずの歴史しかない。それが今では日本全国どこへ行っても握り寿司の店の無い町はなく、それどころか全世界に広まって日本料理の中で最高の人気者になっている。

 平成に入って間もなくの頃だったと思うが、「寿司ロボット」が開発されたというニュースが出て話題になった。それが年々進化して、今ではいい加減な職人が握ったものよりはずっと優れたものが出来るという。冷凍冷蔵技術も日進月歩だから、握り寿司は食品工場で大量生産できるようになり、スーパーやコンビニ、宅配寿司チェーンなどを通じて極めて低価格で供給されるようになった。

 もともとの鮓は魚介類の貯蔵を目的とした発酵食品で、大昔、日本に稲作が始まった頃から存在したらしい。塩漬けにした魚肉を米飯とまぜて重石をかけて置くと、三ヶ月から半年ほどたつうちに、発酵した米飯から出る乳酸菌の作用で魚肉は酸っぱくて独特の風味を持つようになる。米飯は既にほとんど姿形を消してどろどろの液状になっており、それがまぶさった魚をおかずや酒肴として食べた。いわゆる「馴れずし」と言われるもので、語源は「酸し」である。奈良時代の木簡には若狭(福井)や志摩(三重)からタイ、アワビ、コノシロなどの鮓や鮨が貢ぎ物として都に運ばれたことが記されている。

 鮓と鮨の二つの字の意味の違いについて、「鮨」は魚や貝類(時には鹿や猪の肉)を塩だけで漬けたいわば塩辛方式を言い、「鮓」は米飯と混ぜて乳酸発酵させたものだとする説があるが、はっきりしない。とにかくこの二つの字は奈良時代から使われていたが、「寿司」という表記は江戸時代も末になって握り鮨が主流になった頃に生れた、縁起を担いでの当て字のようである。

 馴れ鮓はこのように数千年来の伝統食品で、今でも琵琶湖名物の鮒鮨などとして残っている。室町時代になると、十分に発酵熟成していない「生成れ(なまなれ)」鮓がはやり出した。数日から数週間といったところで、飯粒がまだ形体を止めていて、酸っぱくなった飯粒ごと食べたようである。

 江戸時代になるとさらに進んで、桶や木箱の底に竹の皮や笹を敷き、塩をした魚肉を並べて上に飯を詰め、竹皮や笹をかぶせて板を置き、重石をかけて一晩寝かせた押鮨(圧し鮓)が生れた。悠長な馴れ鮓と違って一晩で出来るから「早ずし」「一夜鮓」と言われ、飯ごと食べるから「飯鮨」とも呼ばれた。一晩では乳酸発酵は起こらないから、防腐をかねて飯や魚肉には酢をかけた。馴れ鮓の乳酸に対して、こちらは酢酸による酸味である。

 鮒や鮎、小鯛などを開き、丸めた米飯をそれでくるむようにして木箱に並べ、押しをした雀鮓、一つひとつ柿の葉に包んで押した柿の葉鮓、笹で包んだ笹巻鮓なども生れた。京都や大阪では酢で締めた鯖や鯛などを小型の木箱に並べ、その上に酢飯を詰め込んで重石をかけて数時間から一晩馴れるのを待ち、棒状に切った棒鮨もできた。さらには甘辛く煮た椎茸や卵焼き、酢締めの鯛、焼きアナゴやエビなどを彩り良く箱に並べて飯を詰めて押した大阪名物の押し寿司なども出現した。

 人形浄瑠璃や歌舞伎の「義経千本桜」の「鮓屋の段」に出て来る「釣瓶鮓」もこの「早ずし」で、これは木箱ではなく釣瓶の形をした丸い木桶に魚肉と酢飯を詰めて重石をかけて作った。いずれも魚肉に酢飯をのせてぎゅうぎゅう詰め込んで作ることから、満員状態を言う「すし詰め」なる言葉が生まれた。

 こういった押し鮓の類いが元禄、享保、天明の頃まで、つまり十八世紀の末まで、江戸や大阪で言う鮓であった。与謝蕪村の「鮒鮓や彦根の城に雲かかる」は馴れずしだが、「鮓の石に五更の鐘のひびきかな」は夜明け方(五更)にそろそろ鮨の漬かり加減がよくなってきたということで、明らかに「早ずし」である。小林一茶は「鮨になる間とくばる枕かな」は、客を招いて「もう間も無く鮓が馴れますから、昼寝でもしてお待ちください」と枕を配っている情景で、これも早ずし・押し寿司であろう。

 ところが文化年代(一八〇四─一八一八年)の終り頃、深川六間堀、今の両国橋と新大橋との間あたりの隅田川東岸にあった「松鮨」という店が、丸めた酢飯に魚の切り身を乗せてぎゅっと握っただけの鮨を出した。一晩で出来る「早ずし」どころか、客の見ている前で出来る。気の短い江戸っ子にはこの「握り鮨」が大もてで、すぐに近所に「与兵衛鮨」というライバルが出現した。

 以後、あちこちに握り鮨屋が生れて、文政年間になると江戸では押し鮓を押しのけて「にぎり」が主流になった。それが大阪にも伝わり、「守貞漫稿」には「文政末頃、戎橋南に松の鮨と名づけ江戸風の握り鮨を売る」と書かれている。江戸前の握り鮨は何と言っても「松鮨」、それにあやかりながら少し遠慮して「の」を入れた屋号を名乗ったのだろうか。とにかく握り鮨は大阪にもいち早く伝わったが、こちらは伝統的な押し鮓や、魚介類や煮た野菜を切り混ぜたばら寿司、蒸し寿司が勢力を保ち、握り鮨と拮抗しながら今日に至っている。

 文化文政時代の東京湾にはアジ、キス、小鯛、アナゴ、コハダや貝類など、江戸前の新鮮な鮨ネタが豊富に上がった。これが当時の江戸で握り鮨というファストフードの大流行した一因であろう。さらに天明の飢饉、文化の飢饉など、数年おきに関東以北を飢饉が襲い、その度に江戸に流入する人口が増大し、蕎麦と並んでお手軽な握り鮨がもてはやされたものと思われる。

 もっとも、松鮨と与兵衛鮨は超高級店で、肥前平戸藩主で文人の松浦静山が書いた随筆集「甲子夜話」には、松鮨の鮨は五寸ばかりの器の二段重ねで三両もするとある。にぎり一個が二百五十文もしたらしい。客ももっぱら大名、旗本、大商人で、重箱に入れられ進物用などにされていたようである。これをピンとすれば、キリの方は一個四文で、蕎麦一杯十六文に比べれば割高だが、庶民も口にすることができた。

 この当時の握り鮨、特に庶民向けのものは、今日の上品なのと違って飯の量も切り身も大きく三つ四つ食べれば十分だったという説があるから、一回の食事代金としては蕎麦とあまり変らなかったのかも知れない。当時の江戸は東京湾岸の埋め立てや川の付け替えなど、のべつまくなしに土木工事が行われていた。そうした工事現場近くの人足寄場などでは握り鮨が安直な食べ物として大人気になったようである。文政十二年(一八二九年)刊行の「柳樽」百八編には「妖術といふ身で握る鮓のめし」という句が載っている。鮨屋の親父が握る様子を、児雷也などが両手で印を結びドロンドロンとやる格好に見立てた川柳だが、この頃には握り鮨が江戸の庶民階級にもすっかり根づいていたことが分かる。

 その後、煮しめた油揚げの中に酢飯を詰めた稲荷鮨、カンピョウを入れて巻いた海苔巻、酢飯の上に魚介類や煮しめた野菜をのせた散らし寿司などが続々と生れた。また秋田のはたはた鮨、富山の鱒鮨など、各地方に特産の魚を用いた名物鮨がある。それらはもともとは馴れ鮓だったのだが、今日では簡便で現代人の口に合うよう押し寿司方式に変っているものが多い。

 どうして一年中食べられる鮓が夏の季語になったのか。多くの歳時記や俳句の解説書によれば、夏場の蛋白補給源として重宝がられた馴れ鮓から「鮓は夏の物」とされたというのが定説になっている。しかし、俳諧が盛んになった江戸時代中期には、近江の鮒鮨などはさて置き、既に押し寿司が全盛になっているのだから、「馴れ鮓を念頭に置いて作句すべし」というのも妙である。馴れ鮓にせよ押し寿司にせよ、はたまた握り鮨にせよ、あの酸っぱさと口当たり喉越しの良さが、食欲減退の夏場に最も好まれるから、「鮓は夏の季語にふさわしい」と考えた方が素直である。


  鮓つけて誰待つとしもなき身哉    与謝 蕪村
  筏踏んで鮓桶あらふ女かな      高井 几董
  鮓見世や水打ちかける小笹山     小林 一茶
  早鮓のなれや雨雲過る程       松瀬 青々
  鮓おすや貧窮問答口吟み       竹下しづの女
  鯖鮓に日ざかりの色寄せ返す     佐野青陽人
  鮓桶の塗美しき燈下かな       星野 立子
  鮓一つつまんで神楽面つける     松本  旭
  鮒鮨の譜代伝はる重石かな      橋本 鶏二
  鮎鮨や吉野の川は水痩せて      佐藤 鬼房

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