新緑(しんりょく)

 春深まる頃萌え出した木々の芽は初夏になるとすっかり葉の形を整え、爽やかな風にそよぐ。しかしまだ真夏の木立の深い緑色ではなくて、淡い新鮮な緑である。

 いかにも夏の到来を感じさせるみずみずしい緑が「新緑」である。初夏の樹木の様子を示す季語には「若葉」「新樹」もある。この三つの季語にはいずれも初夏の爽やかで新鮮な気分が込められているが、微妙なニュアンスの違いがある。

 「若葉」には「柿若葉」「樟若葉」というように、木の名前を頭につけて言うことがあるように、美しい若い葉の輝きそのものを喜び讚える気持が濃厚である。若葉には見る人に元気を注入してくれるような霊力さえ感じられる。そんなところから若葉は江戸時代から初夏の季語としての地位を確立し、名句も数多い。

 「新樹」という季語は、そうした若葉を繁らせている立ち木のたたずまいに焦点を絞ったものである。若葉で装った樹木には、清新の気溢れる力強さがある。新樹は鎌倉時代から題目として取り上げられているようだが、昔の和歌や俳諧に新樹という言葉がそのまま詠まれることはあまり無かったようである。曲亭馬琴編「増補俳諧歳時記栞草」の岩波文庫版の脚注に、「白雲を吹尽したる新樹かな」という、芭蕉とも親交のあった椎本才麿の句が載っているが、これなど珍しい作例であろう。

 それが大正時代になると短歌でも俳句でも新樹が盛んに詠まれるようになった。今日でもなかなかの人気である。言葉の響きが新鮮な感じを与えるためであろうか。

 このように「若葉」がみずみずしい葉に注目した季語、「新樹」がそれをまとった樹木を言うのに対して、「新緑」は若葉に蔽われた野山や公園や街並など、ある程度の広がりをもって若葉や新樹が集まり醸し出す雰囲気をうたう季語と言えよう。

 もとより「あらたふと青葉若葉の日の光 芭蕉」「不二ひとつうづみ残してわかばかな 蕪村」というように、若葉にも全体的広がりを担う用法はあり、新樹にしても何も一本だけの立ち木と決まったわけではない。

 若葉、新樹、新緑の三つには「新鮮」「若々しさ」「爽やか」といった気分が通底しているのだが、あえて三者の違いを述べれば、「新緑」と言う場合、「広がり」というものがより一層強調されているように思えるのである。また、わざわざ「新しい緑」としているところからも、鮮やかでなおかつやさしい「若緑」の色彩が強調されている点にも留意すべきであろう。

 「新緑」が季語として確立したのは新樹よりさらに後のことで、昭和に入ってからと言ってよい。満目したたるような緑に蔽われた風景を「若葉」では言い足りないと考えた俳人たちが、「新緑」という軽快な響きを持つ新しい季語に飛びついたのではないか。

 こうして考えて来ると、「若葉」「新樹」「新緑」という三つの類縁季語の差異はまことに微妙である。あえてその違いに目くじらを立てる方がおかしいようにも思える。俳句を作る際に、置かれた環境とその時の気分に応じて、この三つの言葉の中で最もぴったりするものは何かを判断して選び取ればいいのである。

 新緑と言わずに、ただ「緑」という使い方もある。しかしこの場合は淡い色の若葉がもう少し濃くなった頃合いの感じになろう。「緑さす」という言い方は新緑をやさしく言い換えたものと受け取れる。「万緑」は初夏から晩夏まで三夏通した季語とされてはいるが、言葉の響きの強さから言って、やはり新緑よりはもう少し夏が深まった時期にふさわしい。


  新緑やたましひぬれて魚あさる   渡辺水巴
  新緑の庭より靴を脱ぎ上る   山口誓子
  新緑の寺の電話を借りにけり   増田龍雨
  新緑やまた水楢に歩をとゞめ   佐野青陽人
  新緑やうつくしかりしひとの老い   日野草城
  新緑の天にのこれりピアノの音   目迫秩父
  新緑の山径をゆく死の報せ   飯田龍太
  新緑の樟よ椎よと打仰ぐ   高木晴子
  摩天楼より新緑がパセリほど   鷹羽狩行
  貨車憩ひをり新緑に尾を入れて   黛執

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