立春から数えて88日目の八十八夜、これがほぼ春の終りの5月2日頃である。それから3日ばかりで立夏となり、いよいよ夏の到来である。この晩春、立夏のあたりが最初の茶の摘み取り時期ともなる。まだ薄緑の若芽を摘んで、すぐに製茶したものが、五月中旬には都会地の店頭に現れる。これが「新茶」であり、「走り茶」とも言われ、古来これを飲めば寿命を延ばすとして珍重された。
新茶は香りもほのかで、色も薄く、味も淡泊である。沸騰した湯をちょっとさまして注ぎ入れ、ゆっくりと煎じたものを染付けの磁器に注いで、色と香りを楽しみ、おもむろに味わう。確かに少々は寿命が延びるような気がする。
人工調味料や甘味料で舌が荒れてしまった現代人には、ちょっと物足りない味わいかも知れない。デパートやショッピングセンターなどで、幟を立てたりして「新茶試飲即売会」をやっているのを見受ける。「旦那さん、飲んでみて」とぐいと突き出された紙コップの中を見ると、新茶にしてはずいぶん濃い色合いである。どうみても何かで色をつけたようにしか考えられない。中にはグルタミン酸をまぶしたお茶もあるというから恐ろしい。「いや、喉は渇いてないから」などと断わりにもならないことを呟いて逃げ出す。
茶は鎌倉時代の禅僧栄西(1141─1215)が中国南宋に留学した時に持ち帰った種子を、宇治で栽培したのが始まりとされている。それ以前にも上流貴族や僧侶は茶を飲んでいたようだが、すべて中国からの輸入品であった。とにかく、茶は貴重品で、もっぱら薬用として飲まれていた。栄西は茶の効用を尊び、日本にこれを普及させようと、茶の実を持ち帰るとともに、その栽培法、製茶の方法、飲用方法と効用などを詳しく述べた『喫茶養生法』という本を書き、時の将軍源実朝に献じた。
宇治は栄西の茶の木を大切に育て、以後、日本第一の茶の産地となった。徳川4代将軍家綱の承応三年(1654年)に中国から隠元禅師が来日、宇治に黄檗山万福寺を開いたが、その頃既に付近一帯には茶畑が広がっていたようである。それから更に130年ほど後の天明期の俳人田上菊舎は万福寺参詣の折に「山門を出れば日本ぞ茶摘うた」と詠んでいる。
このように、鎌倉初期に禅宗とともに日本に入って来た茶は全国各地で栽培されるようになり、程なく本場中国を凌駕するような銘茶を産するようになった。室町時代に始まった茶の湯が、貴族や上級武士の間で流行し、江戸時代に入ると町人階級も茶を楽しむようになった。
日本人ほどお茶をがぶがぶ飲む民族もいないと言われているが、急須で汲み出すいわゆる煎茶を普通の家庭で飲むようになったのは、江戸時代も半ば以降のことである。とは言っても、茶の葉は高価なものだったから、長屋の住人などではなかなか口にできなかったようである。夏の盛りになって旺盛に茂った葉を茎も一緒に刈り込んで作った番茶や、製茶の過程で出る粉茶、茎茶や古くなった茶葉を一緒にして煎った焙じ茶、といった安いお茶を飲めればまだしもであった。一般の町民は普段は大麦やハトムギなどを煎った麦茶などの代用品や白湯を飲んでいた。
テレビの時代劇で長屋住まいの浪人や職人が「何もないが、まあ茶漬けでも」などと言いながら掻っ込んでいるシーンが出て来るが、ちょっとおかしい。これは大概は「湯漬け」であったはずである。その一方では、江戸一番の料亭八百膳で5両のお茶漬けを出したところ、食通に喜ばれたという馬鹿馬鹿しい話も残っている。現今の貨幣価値で言えば、さしづめ1杯10万円のお茶漬けということになろうか。もちろん極々上等の新茶で、水もそのために玉川上水の羽村の堰あたりまで汲みに行ったという。
とにかく普通の煎茶ですら高級な飲み物だったわけで、ましてや新茶というものは飛びきりの贅沢品であり、これが一般化して庶民も楽しめるようになったのは、昭和に入ってからのことである。
新茶はいかにも爽やかな初夏を感じさせる季語である。新茶が出回るようになると、前年の茶は古茶ということになるが、これも初夏の季語になっている。じっくりと茶の味を楽しむということになれば、味の薄い新茶よりは良質の古茶の方が良いと言う人もいる。 なお「茶摘み」は八十八夜を中心に始まるものだから、春の季語である。
彼一語我一語新茶淹れながら 高浜虚子
夜も更けて新茶ありしをおもひいづ 水原秋櫻子
新茶汲むや終りの雫汲みわけて 杉田久女
壺一つのりたる棚の新茶かな 阿波野青畝
天竜の切りたつ岸の新茶どき 百合山羽公
本郷も変りしといひ新茶買ふ 細見綾子
新茶売りはじめ候筆太に 神宮寺茶人
出不精となりて新茶に親しめり 前川みや子
走り茶や父に女の客ありて 柴崎七重
古茶新茶これより先も二人の居 村越化石