蝉の句と言えば、俳句を作らない人でも「閑さや岩にしみ入蝉の声」を口にする。言うまでもなく芭蕉が奥の細道の旅で、元禄二年(一六八九年)五月二十七日(陽暦では七月十三日)に山形県の立石寺を訪れた時の作である。
こういう名句があると、初心者は蝉の句はこんな風に作らねばと思い込んでしまいがちである。熟練者になると、そこから抜け出そうともがく。いずれにしても蛙の句同様、やりにくいこと甚だしい。
それはともかく、芭蕉はこの句にたどりつくまでに、何度も推敲を重ねている。最初は「山寺や石にしみつく蝉の声」だった(曽良旅日記)が、それをまづ「さびしさや岩にしみ込蝉の声」と改めた。しかし、「さびしさ」という生の言葉を避けようと考えたのか、最後に「奥の細道」を執筆する段階で、「閑さ」に落着いた。「奥の細道」を書き終えたのは、旅から戻って五年後のことである。俳句作りが仕事とは言え、一つの作品を完成するまでに五年もかけるとは、その執念のすさまじさを感じる。
蝉は熱帯、亜熱帯地方に多く、世界中に約千六百種類もいるという。このうち日本に棲んでいるのは三十二種類。四月中旬に松林によく現れるのがハルゼミで、これは春の季語になっている。六月下旬から梅雨明け近辺に出現するのが小型で茶色のだんだら模様のニイニイゼミ、続いて体長四センチ程のやや大型の油蝉がジージーとやかましく鳴き立てる。追いかけるようにミンミンゼミが現れ高い声でミーンミーン、そして最も大きなクマゼミ(体長四・五センチほど)が主として朝方にシャーシャーと鳴く。杉や檜の森には二センチほどしかない小さなチッチゼミがチッチッチッチッーと鳴き交わす。これらが本州の夏を代表する蝉だが、東北から北海道には大型のエゾゼミ、アカエゾゼミが出る。
やがて八月になると、オーシーツクオーシーツクと鳴くツクツクボウシ、早朝や夕方にカナカナカナカナと鳴くヒグラシが現れる。この二つは秋の季語になっている。
それにしても蝉はあの小さな身体でずいぶん大きな声を出すものである。腹中の発音筋が収縮して両脇の発振膜を震わせ、その音を腹部の大部分を占める共鳴室で増幅するのだという。その声を聞いて雌が近寄り、交尾し、卵を木の幹や枯れ枝に産みつける。数ヶ月後に孵った幼虫は落下して地中にもぐり、木の根から樹液を吸って育ち、大きくなると地上に現れ木に取りついて脱皮し、また鳴き始める。
蝉は地中での幼虫期が長く、アブラゼミやミンミンゼミで約七年、北米には十七年も地中に潜っている蝉もいる。ようやく成虫になり、木にとりすがって鳴き始めても、その命はわずか十日から二週間である。たかだか半月の間に、雄は伴侶を見つけ首尾よく子孫繁栄行為を遂げねばならない。雌は全く鳴くこともせず、ただ卵を産んで死んで行く。忙しいことこの上ないし、哀れと言えばこれほど哀れな虫もない。現れた途端にミンミン、ジージーと、まるで狂ったように鳴くのもむべなる哉である。
しかし、蝉の一生を何とはかなく哀れなものかと嘆ずるのは、人間の勝手な思い込みであろう。無数の蝉が集まって大合唱する様は、まさに生きる歓びを謳歌しているようであり、これで蝉は蝉なりに十分生き甲斐を感じているのかも知れない。
考えて見れば人間は「万物の霊長」などと勝手に思い込み、偉そうにしているだけで、開闢以来それほど大した事をやって来ているわけでもない。泣きわめく時間が蝉は半月、人間は七、八十年と両者には大いなる懸隔があるように見えるが、それも大自然の尺度をもってすれば、さしたる違いではないような気もする。
俳句では蝉は蜩(ひぐらし)などは別として夏のものとされている。しかし、アブラゼミもみんみん蝉も立秋を過ぎた後も盛んに鳴いている。それに近ごろの夏休みはむしろ八月が本番という感じだから、たとえ暦は秋になっていても、蝉の句を詠んでもさしつかえなかろう。
単に「蝉」とか「蝉の声」と詠まれるだけでなく、にいにい蝉、油蝉、みんみん蝉、熊蝉、蝦夷蝉など種類別に詠まれる場合もある。それぞれ特徴ある鳴声を句に反映させたいという作者の心根であろうか。鳴かない蝉(雌)は「唖蝉(おしぜみ)」と言う。また、梅雨明け後、初めて聞く蝉の声を「初蝉」と言い「朝蝉」「夕蝉」「夜蝉」と時刻を限って詠むこともある。子供たちにとって夏休みの楽しみの一つだった「蝉捕り」も季語になっている。蝉の大合唱がまるでにわか雨のようだということから、これを「蝉時雨」とも言う。さらに、古く和歌からの伝統として、蝉の抜け殻を「空蝉(うつせみ)」と言い、この世の儚さ、無常といった情感の盛り込まれた季語もある。
蝉啼いて杉にも脂の流れけり 高桑 闌更
鳴きやめて飛ぶ時蝉の見ゆるなり 正岡 子規
蝉鳴くや松の梢に千曲川 寺田 寅彦
唖蝉も鳴く蝉ほどはゐるならむ 山口 青邨
身に貯へん全山の蝉の声 西東 三鬼
聞くうちに蝉は頭蓋の内に居る 篠原 梵
蝉時雨子は担送車に追ひつけず 石橋 秀野
女ざかりといふ語かなしや油蝉 桂 信子
蝉の穴覗く故郷を見尽くして 中村 苑子