陽暦5月6日頃が「立夏」で、暦の上ではこの日から8月7日頃の立秋の前日までが夏ということになる。
東京から大阪あたりにかけての本州中央部では、まだ春の気分が残っているが、新緑が鮮やかで晴天の日が多く、心地よい薫風が吹き渡る。北の弘前や函館、札幌あたりはまだ夏にはほど遠く、ようやく最低気温が五度を越え、桜が見ごろとなり、豆が蒔けるようになる頃合い。逆に南の九州地方では麦の穂がそよぎ、稲籾を蒔く時分。沖縄ともなるとそろそろ梅雨支度にかかろうかという時節である。
このように南北に細長い日本では、「立夏」と言っても住む場所によって気温や周囲の景色がずいぶん異なる。しかし、ゴールデンウイークが終って、一区切りついた時でもあり、「暦の上ではいよいよ夏です」と言われると、何となく夏になったような気になる。
立夏とは暦の二十四節気の一つである。暦は言うまでもなく中国から伝わったものである。古代中国では月の満ち欠けによって暦を拵えた(太陰暦)。月が姿を見せない新月を1日とし、満月を15日、また月が隠れてしまう日を30日(月によっては29日)とし、これを12ヶ月重ねると1年ということにした。しかしこれだと太陽年に比べ一年が10日ばかり短くなってしまう。暦の日付が太陽の位置と無関係に進むため、ひどい時には季節が1ヶ月もずれてしまう。これでは農作業に非常に不便である。
昔の帝王にとって最重要の仕事といえば、正しい暦を発布することであった。人民に季節の移り変わりを教え、種まきの時期をはじめとした農事の段取り、春夏秋冬の生活上のもろもろの準備をさせるための暦である。それがずれてしまっては話にならない。というわけで、太陽の運行によって生ずる季節変化を太陰暦に組み込んだ太陰太陽暦というものを発明した。殷王朝(紀元前16世紀から紀元前11世紀頃まで)の時代には既に太陰太陽暦が用いられていたというから、大したものである。
太陰太陽暦は、太陽が天空を一周する黄道(もちろん実際は地球が太陽の回りを1年かけて回るのだが)を24等分し、それぞれの点を太陽が通過する時の季節にふさわしい名前を付けて「二十四節気」とし、それを各月に2つずつ割り振ったものである。これによって暦の上には、毎年ほぼ同じ時期に同じ節気が印されるようになり、誰でも季節の到来を知ることが出来るようになった。正月1日は「立春」、2月始めが「啓蟄」、2月半ばが「春分」、4月1日が「立夏」、7月1日が「立秋」、10月1日が「立冬」、11月半ばに「冬至」となり、12月半ばに「大寒」となって半月たつと、再び立春になる。
しかし、各月は月の満ち欠けを基準にした30日の「大の月」と29日の「小の月」の組合わせで、1年間の日数は太陽年に比べて10日から11日も短い。従って数年で季節が1ヶ月ほど狂ってしまうから、19年間に7回の閏月を置く「1年13ヶ月」の年を挟むことで調節した。
とにかくこうした工夫をこらして、暦と季節の推移を何とか合わせ、生活の指針になるようにして来た。何とこの太陰太陽暦は飛鳥時代に日本に入って来て以来、明治五年まで使われて来たのだから驚きである。「二十四節気」は日本人の心に深く刻み込まれ、今日でも大方は季語として残り、俳句を詠まない人の会話の中にも夏至だ冬至だ啓蟄だと、盛んに登場している。
二十四節気で言う夏は、立夏に始まり、小満(草木繁りはじめ万物天地に満つ)、芒種(ノギある穀物、稲を蒔く時)、夏至(日の最も長くなる時)、小暑(暑さが日増しに募る)、大暑(暑さ極まる時)となる。大暑が現在の暦ではおおむね7月23日ころからの15日間で、これが終ると立秋になる。
気象学的に言えば、本州の中央部あたりでは立夏の頃はまだ春の続きと言った方がいいかも知れないし、立秋を過ぎてもまだまだ暑い日が続く。つまり1ヶ月ずらして、6、7、8月を夏とした方が合理的のようにも思える。二十四節気はもともと中国の中原一帯つまり黄河中流域の気候に合わせて考案されたものだから、それとのずれかも知れない。
ただ、詩歌の世界にあっては、季節の変化をいち早くつかみ取ることが手柄とされているから、これでいいのだということもできよう。
「りっか」という硬質の語感を嫌ったのか、江戸時代の俳諧ではあまり使われず、もっぱら「夏立つ」「夏に入る」「夏来ぬ」などと詠まれた。現代の俳人もそれを踏襲することが多い。
夏立つや衣桁にかはる風の色 横井也有
夏来ぬと人に驚く袷かな 大島蓼太
滝おもて雲おし移る立夏かな 飯田蛇笏
おそるべき君等の乳房夏来る 西東三鬼
夏立ちし日の焼鯖の馥郁と 日野草城
しまうまがシャツ着て跳ねて夏来る 富安風生
プラタナス夜もみどりなる夏は来ぬ 石田波郷
ふるさとの山を盾とす立夏かな 原裕
放牛に雨粒太き立夏かな 水野爽径
夏来る回転ドアの向こうから 佐伯和子