桜桃忌(おうとうき)

 昭和23年6月13日、戦後の混乱が尾を引く世相を背景に、「人間失格」「斜陽」「ヴィヨンの妻」などで時代の寵児となった作家大宰治(本名津島修治)が愛人と玉川上水に入水自殺した。ぺらぺらの新聞紙を手に両親がそのことを喋っているのを、小学5年生の私は遠い世界の出来事のように聞きながら、芋の皮をむしっていた。

 この6月という月は私の誕生月ではあるけれど、あまり楽しい月ではなかった。戦後の数年間は特に、疎開先にしばらく居残りを余儀なくされ、にわか百姓となったわが家にとっては、食料が底をつく最も辛い時期だったからである。

 B29の直撃を食らって全焼した横浜を後に、千葉の鷹之台ゴルフ場に避難して、一家7人馴れない田舎暮らしを強いられていた。父も母も持ち付けない鍬やシャベルを振るってフェアウエーの芝生をはがし、芋苗などを植えた。小学生の子供たちもひょろひょろしながら下肥の桶を担いだ。

 実りの秋はそれこそ自分たちの汗の結晶である生り物を味わい、幸福感に浸ることができた。しかし、冬が来て春が来て、そして5、6月。いわゆる端境期となり、食うものが無いのである。前年の秋に収穫したなけなしの陸稲はとっくの昔に食い尽くしている。小麦はまだ熟していない。2メートルほど掘った穴の芋の貯蔵庫(千葉方言でイモメドと言った)のサツマイモも残り少なく、大方は芽を吹いたり、腐れが出たりしていた。

 近隣の農家に食を乞うにも、お金だけではうんと言わず、何か物を差し出さねばならない。戦災当時、辛うじて持ち出した衣類や書画骨董の類いは3年もたてば一物も残っていない。戦前、これらの農家は、おかみさんや娘たちがキャディーとして、次三男は作男としてゴルフ場に雇ってもらい、貴重な現金収入を得ていた。そういうゴルフ場のオーナーの親戚ということで、初めの頃こそ笑顔で米や麦、芋を分けてくれていたのだが、3年もたつとそっぽを向くようになっていた。

 そういうわけで昭和23年という年は、わが家にとって最悪の年であった。大宰の死を読んだ時の両親の感懐は、おそらく「気の毒に」というより、「甘えるな」ということだったのではないかと思う。年中腹を空かしている5人の子供たちを抱えて、職無く食無く、さりとて水に飛び込んでしまうわけにもいかないと悩む父親の気持はいかばかりであっただろうか。

 大宰人気というものはものすごいものであった。当時のハイティーンから20代にとっては単なる小説家というより、今でいうアイドルのような存在だった。その昂ぶりが10歳ばかり下の我々世代にも伝染して、昭和20年代末から30年代初めの高校生は大宰を読まずして小説を語る勿れという風潮であった。

 私の本棚には今でも「河出書房市民文庫・大宰治集」がある。ザラ紙の文庫本で「昭和28年3月10日発行、定価百圓」とある。当時の百円は大金で、貧乏高校生の私にはとても新本は買えなかったのだろう、裏表紙をめくったところにエンピツ書きで「40円」とあるから、古本屋をあさって手に入れたものとみえる。どういうわけかこの本の表紙は最初からむしり取られていた。だから発行後間も無い文庫本が40円という格安になっていたのであろう。後年、就職してから、もうすこし立派な大宰治も買ったが、やはりこの文庫本には特別の愛着がある。この本の最後に「桜桃」が載っている。

 「子供たちは、櫻桃など、見た事も無いかも知れない。食べさせたら、よろこぶだらう。父が持って帰ったら、よろこぶだらう。蔓を糸でつないで、首にかけると、櫻桃は珊瑚の首飾りのやうに見えるだらう」。昭和23年5月「世界」に載った「櫻桃」の幕切れ近くの一節である。そして自堕落で無頼な父は、恐らく愛人の一人である女の出した桜桃をまづそうに口に含んでは、「子供より親が大事」と虚勢を張る。虚勢を張り続けるのに疲れ切った父親は、何もかもそのままに、この小説が世に出て2ヶ月たつかたたないかで、命を絶ってしまった。

 桜桃忌。入水した6月13日とする説と、遺体が上がった19日とする説がある。菩提寺の三鷹・禅林寺では毎年6月19日に桜桃忌が修される。これも数年前、あまりにも年を経たということで、遺族が止めることを表明したようだが、大宰フアンの絶えることなく、今でも相変わらず続けられているようである。


  大宰忌の蛍行きちがひゆきちがひ   石川桂郎
  大宰忌の身を越す草に雨の音   飯田龍太
  桜桃忌わが身藻抜けの上衣つるす   加倉井秋を
  大宰忌や夜雨に暗き高瀬川   成瀬櫻桃子
  ほろにがき蕨大宰の忌なりけり   南部憲吉
  眼鏡すぐ曇る大宰の忌なりけり   中尾寿美子
  行き帰り上着を肩に桜桃忌   森田公司
  濁り江に亀の首浮く大宰の忌   辻田克巳
  黒板に人間と書く桜桃忌   井上行夫
  一日を濡れ傘持ちて大宰の忌   内田美紗

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