扇(おうぎ)

 私たちの身の回りに古くからある調度品や小物は大抵が中国からもたらされたもので、新しいものは欧米からの輸入品、そう思っていたら「扇」は日本独自のものだということが分って、なんとはなしに嬉しくなった。

 大昔の飛鳥時代に中国から団扇(うちわ)がもたらされ、朝廷貴人の間で盛んに用いられた。平安時代初期になると、団扇の骨をばらばらにして、基を留め金で束ねて、折りたたみ自在にした扇が考案された。最初は杉や檜の薄板で作られた板扇だったらしい。男性用は白木の檜扇(ひおうぎ)で、日常、朝廷に出仕する時の略装(直衣など)には笏(しゃく)の代りにこれを持った。お姫さまや女房連中は檜扇に金銀紅緑など鮮やかな色彩をほどこした衵扇(あこめおうぎ)を常用した。しかしこうした板扇は涼をとるものというより儀礼用の調度品といった趣が濃い。

 そのうちにばらばらにした骨に紙や布を張って、使わない時には畳める、今日の扇子と同じようなものが考案された。蝙蝠の羽がヒントになって作られたということで、当時の蝙蝠の呼び名そのままに「かわほり」とも呼ばれた。これが携帯用涼風器として人気を呼び、一気に広まった。そしてこれが平安時代末期に中国に逆輸出され、そこから全世界に広まったという。中国からヨーロッパに伝わったのは十七世紀頃らしく、フランスの宮廷貴族の間に広まり、絹地や孔雀の羽などを用いた豪華絢爛たる扇が続々と生れた。

 俳句の季語になっている扇はもちろん儀礼用の檜扇ではなく、夏の実用品である「かわほり」の方である。武家が持つ骨の片側だけに紙を貼った扇は今でも舞に使われ、華麗な絵を描いて飾り物になったりしている。一般に使われる扇子は骨の両側に紙や布を貼ったもので、これは室町時代になって生れたという。白扇もあるが、日常用いられる扇は涼しげな絵や模様、字が描かれている。やはり生まれが京都御所ということもあって、今でも京扇子が幅を利かせている。ただ江戸時代に日本の中心が今の東京に移ってからは、江戸にも多くの扇店が生れ、諸国からやって来た人たちがおみやげ品として買い求めた。また江戸の町々にはすだれなどに広げた扇子を差したパネルを掲げて売り歩く「扇売り」や流行の絵柄を描いた扇の地紙を売る「扇地紙売り」が出たという。

 時期外れの無用の長物を言う四字熟語に「夏炉冬扇」というのがある。この言葉は後漢(西暦二五─二二〇)に王充という人が書いた「論衡」という書物に載っているもので、無論扇子ではなく団扇である。松尾芭蕉は弟子で近江彦根藩士の森川許六が故郷へ戻るに当って与えた「離別の詞」の中で、自分の絵の師匠である許六の絵は実に大したものだが「予が風雅は夏炉冬扇のごとし、衆にさかひて用る所なし」と述べている。私の俳諧などは言ってみれば夏の炉、冬の扇子のようなもので、大多数の人たちの考えることとはまるで逆の方向を行っており、まるで役に立たないものなのだという意味合いであろう。それはさておき、こういうちょっとした手紙の中にも使われるように、「扇」は人々に親しまれていたことが分る。エアコンなど無かった昔、夏の最中にはちゃんとした大人は誰もが扇をたばさんで、一休みする時には必ず扇いだ。必需品であり消耗品でもあった扇は夏を越す頃にはかなり傷んでしまったのであろう、翌年にはもう使い物にならず、「古扇」という季語も生れた。そして買ったばかりの扇を開くと、少しぎこちなくきしむ音など立てることがある。これがなんとも言えず新鮮な感じがして「初扇」という季語になっている。


  富士の風や扇にのせて江戸土産   松尾芭蕉
  渡し呼ぶ草のあなたの扇かな   与謝蕪村
  初扇かはせみの句のひらかれし   百合山羽公
  倖を装ふごとく扇買ふ   馬場移公子
  出づべくと妻が扇をさがすなり   武定巨口
  人に老扇に汚れおのづから   伊藤柏翠
  京わらべ三尺帯に扇子かな   石橋秀野
  仰臥さびしき極み真赤な扇ひらく   野澤節子
  ぱりぱりと押し披かるる初扇   下村梅子
  扇閉づ悲しきことを問はれゐて   鷲谷七菜子

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