昔といってもそれほど昔ではない、まだ一般家庭にエアコンというものが普及していなかった昭和時代の最後の頃までは、夏場の西日はまことにうんざりするものであった。
高浜虚子編「新歳時記」の「西日」の項には、たった一行「夏期の西日は堪へ難い」とある。そして例句が二句。『清瀧の向うの宿の西日かな 吉右衛門』と自作の『木々の間を透きてしうねく西日かな』を掲げている。実に素っ気無いが、これでもう十分といった気分がうかがえて面白い。
夏の早朝は気分が良い。しかしそれも束の間、太陽が高くなるにつれて茹だるような暑さとなり、正午を回るころにはまさに「炎天」、舗装道路の上などに立つと目が回るようである。これが午後五時頃まで続き、日が西に落ちて雄大な「夕焼け」が現れてようやく人心地つく。つまり、仕事でも遊びでも一番身が入るはずの午後1時から五時という時間帯が、西日の最もきつい頃合いでもある。無理をすれば覿面で、日射病にならないまでも後々まで身体がだるくなったりする。
徒然草第55段は、「家の作りやうは夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。暑きころわろき住居は、堪え難き事なり」という有名なくだりである。冬の寒さは火を焚いたり、重ね着をしたりで何とか過ごせるが、夏の暑熱はどうしようもない。だから家というものは風通しを良くして、西日が入らないように庇をできるだけ長く張り出すなど、万事夏場のことを考えて作るべきだというのだろう。兼好さんに教えられるまでもなく、昔の日本家屋はすべてこの旨を尊んで作られて来た。
しかし、家電製品の目覚ましい進歩発達でエアコンが急速に普及した。昭和50年代の終わり頃には、都会地ではほとんどの家庭に行き渡った。都会の一般家庭の住居は狭い敷地に無理をして建てるものだから、「夏をむねとすべし」などと言っていられなくなり、庇は切り詰め、間取り優先で通風などは二の次となった。外壁はコンクリートか合板の上にモルタルをかぶせた仕様である。建具も木製が姿を消し、アルミのサッシになった。こういう機密性の高い家が造られるようになったのも、エアコンが割に安く手に入るようになったからである。こういう庶民住宅(もちろん筆者の自宅もそうなのだが)で、もしエアコンが故障でも起こしたらどうなるか。兼好さんは悶絶してしまうに違いない。
幸いわが家のエアコンは冬場の暖房期間中に故障してくれたので、2日ばかり電気ストーブでしのぐことで済んだが、夏場だったらゆでダコだろうなと思ったものである。この夏は東京電力の原子力発電所の稼働停止で電力不足が心配されている。万が一、西日ぎらぎらの真夏に停電でも起こったら、東京はどうなってしまうのだろうか。蒸し風呂のようなマッチ箱住宅から逃げ出した人々は、自家発電のある盛り場のレストランやデパートに押し掛ける。出かけた以上、ジュースの一杯くらいは飲むだろう。中にはやけになって何か衝動買いしてしまう人も出て来るだろう。沈滞気味の消費が刺激されて、景気回復のきっかけにならぬとも限らない。
それはとにかく、エアコンの普及で西日の恐さはすっかり忘れられた観がある。昔の俳人は西日の凄さを半ば呆れ半ば崇め奉るように、「大西日(おおにしび)」という季語まで生んだものだが、今日では「西に大きな窓をとって、午後の太陽と夕焼を眺めたい」などと、テレビの住宅建築番組でほざいている若夫婦があった。
西日に代表される盛夏の暑熱をなんとか和らげようと、昔の人は日除け、葭簀、カーテンや、氷柱、風鈴、吊りしのぶといった大道具小道具を考え出した。しかし、そういったものはエアコン時代の今ではすっかり実用価値を失い。単なるアクセサリーとして命脈を保っているに過ぎない。エアコンの効いた室内で、「西日」を俳句にするのは難しいことかも知れない。
カーテンの綾美しき西日かな 高浜虚子
まむかひの窓の西日のすだれかな 久保田万太郎
西日歩き余り者にも似たるかな 大野林火
ふくらみて大煙突と大西日 永井東門居
西日照りいのち無惨にありにけり 石橋秀野
銀座西日頸たてて軍鶏はしるなり 加藤楸邨
故郷の電車今も西日に頭振る 平畑静塔
病院の西日の窓の並びたる 五十嵐播水
運動具小屋にもっとも西日かな 加藤朱
ライオンの檻で西日の煙草消す 寺山修司