虹(にじ)

 雨上がりの空に出る七色の円弧状の光りの帯。夏の夕立の後によく出現するために、夏の季語にされたようである。虹は条件さえ整えば四季を問わず、また朝方にも出る。しかし、俳句に詠む場合、夏以外の虹は「春の虹」「冬の虹」などとすることになっている。朝虹は西の空に出て雨を呼ぶと言われ、夕虹は東に見えて晴れになるとも言う。虹の裾を「虹の根」と言い、「虹立つ」「虹の輪」「虹の橋」「虹の帯」などと詠まれる。

 太陽を背にして立った時、前方の空に浮遊する水滴に太陽光線が当たり、水滴の中で太陽光線が屈折反転して見る者の目に戻って来る。その時、屈折角度の微妙な違いによって太陽光線が分光(スペクトル)し、いわゆる虹の七色となって目に映じる。外側から赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の順に並ぶ。しかし七色すべてがはっきりと見えることはあまりなくて、赤、黄、青などが目立ち、色の境目はさだかでなく、渾然一体としていることが多い。

 時には2階建ての虹が現れることもある。主虹の上に出る副虹である。多くの場合、副虹は主虹に比べ色が薄く、色の並び順が主虹と反対になり内側が赤で外側が紫になる。これは「二重虹」と詠まれる。

 虹という字の偏の「虫」はヘビで、旁の「工」は貫くという意味だそうである。つまり昔の中国人は虹を天空を駆ける大蛇と考えたらしい。それにしても美しく幻想的な大蛇である。

 もう一つ虹を表す字に「霓(げい)」がある。これは細いニジ、あるいは副虹を指す。ニジは大蛇であるとしたところから、当然雌雄があって然るべきだと考えたのであろう、大きなものはオスで虹とし、小さな方をメスと決めて霓と名付けた。しかし日本人はニジに雌雄の別を感じなかったせいか、もっぱら「虹」という字ばかり用いて、今では「霓」と書いてもニジと読める人はほとんどいなくなった。

 虹は洋の東西を問わず、万人が喜ぶ。特に夏の夕方の虹は印象的である。一雨去って涼しくなった頃合いに中天にかかる虹はなんとも清々しく、気持が良い。眺めていると夢がふくらみ、何か良いことがありそうな気分になる。

 華麗で幻想的な虹はまた、はかなさも感じさせる。ふと見上げるといつの間にか現れており、またいつの間にかふっと消えてしまう。そんなところが美人薄命といったことも思わせ、美しきものの長続きしない哀れさを感じさせるのであろう。

 とにかく太古から人間の心を捉えて来たに違いない天然現象なのだが、季語研究の大家山本健吉が述べているように、どういうわけか虹は古歌にあまり詠まれていない。万葉集は雨、霧、雲をはじめ自然現象を詠んだ歌が多いのに、虹は見つからない。古今集、新古今集にも無いようである。従って、江戸時代の俳諧・発句にもほとんど登場しない。夏に出現頻度が高いとは言いながら、他の季節にも現れるから季題・季語になりにくかったせいであろうか。

 ところが近代になり、大正時代以降になると虹を夏の季語とした俳句がにわかに多くなる。大正から昭和初期にかけて叙情詩がもてはやされた時代の空気が俳句の世界にも影響を及ぼしたのか、極めて人気のある季語になった。それが今日まで続いている。


  虹立ちて忽ち君の在る如し   高浜虚子
  十勝野や幾牧かけて朝の虹   水原秋櫻子
  消ゆる時虹青色をのこしけり   軽部烏頭子
  をさなごのひとさしゆびにかかる虹   日野草城
  虹立つも消ゆるも音を立てずして   山口波津女
  虹が出るあゝ鼻先に軍艦   秋元不死男
  虹透きて見ゆわが生の涯までも   野見山朱鳥
  虹へだて旅信に待たんこと多し   野澤節子
  虹二重神も恋愛したまへり   津田清子
  虹の根を洗ふ沖波オホーツク   大柄輝久江

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