夏の山(なつのやま)

 夏の山は麓から眺めるのも面白いし、登るのも暑いことはこの上ないが、目的地にたどりついて爽やかな風に吹かれる気分が何とも言えず、実に楽しい。夏の山に登ることについては「登山」とか「山開き」という季語が別にあるのだが、山歩きの楽しさを「夏の山」という季語で詠んでもいいだろう。

 山中に身を置いて夏山の様子を詠んでもいいだろうし、里山の夏景色を詠むのもいい。五月の初夏の山、六月中旬から七月にかけての梅雨の山、梅雨が明けて本格的な夏空の下に繁茂する山、同じ「夏の山」でも受ける感じはずいぶん異なる。同じ季語でもいろいろに詠めるところが面白い。

 中国宋時代の呂祖謙が編んだ「臥遊録」に、画僧郭熙が四季の山の特徴を詠んだ詩が載っている。「春山淡冶而如笑 夏山蒼翠而如滴 秋山明浄而如粧 冬山惨淡而如眠」というものである。画僧らしく、四季それぞれの山の姿を描くに当たっては、こうした趣きを心にとめておくべきだという心得を説いたもののようにも思われるが、それぞれの季節の山のたたずまいを良く言い表している。

 そんなこともあってこの詩は古くから日本の文人にも愛誦され、俳句の季語にもなった。春は「山笑ふ」であり、秋は「山粧ふ」、冬は「山眠る」である。ところがどうしたわけか夏山の「山滴る」だけは最近まで歳時記に載っていなかった。岩肌から水がぽたりぽたりと落ちて涼味を感じさせる「滴り」という夏の季語が既にあったために、まぎらわしいからと忌避されたのであろうか。しかし夏の里山の緑滴る景色は実に美しく、そこに足踏み入れれば樹木の精気によって寿命が伸びるような感じにもなる。「山滴る」も十分季語になり得ると思う。同じ思いを抱く人たちもかなりあるようで、現代俳句では「耳成も滴る山となりにけり 川崎展宏」を嚆矢としてぼつぼつ詠まれるようになって、遅まきながら「山滴る」を載せる歳時記が出て来るようになった。

 とにかく青葉若葉の夏の山は美しく元気一杯である。山腹はまさに緑滴り、朝や雨が通り過ぎた後などには谷間から夏霧が立ちのぼり、頂上へと這い上りやがて雲になる様子は見ていて飽きない。梅雨の晴れ間の山はぼうっと霞み、緑が濃くなったり薄くなったりして千変万化する。晴天の夏の山はがらりと容貌を変え、陽の当たる斜面はきらきら輝き、日蔭になった所は樹木の緑が黒みを帯びて、何物かが潜んでいるような感じである。

 雪をかぶって人を寄せ付けない冬山も、春になれば芽吹きの柔らかい黄緑色に変わり霞をまとう。それが日を追うごとに緑を増し、照り輝く夏山となり、やがて紅葉黄葉に彩られる。季節ごとのこうした変化が、平地からそれを仰ぐ人々に、山には固有の神様が宿ると思い込ませ、山岳信仰につながるようになっていった。やはり日本一の富士山が信仰対象としては一番であり、この神様はニニギノミコトの妃である木花之開耶姫(コノハナサクヤヒメ)で、浅間神社の祭神として祀られている。

p> 富士山信仰は江戸時代中期以降、大いに流行り、「冨士講」という寄り合いが各町内に出来た。参加者は毎月決まった金額を旅行費として積み立て、七月一日のお山開きになると先達に率いられて「六根清浄」と唱えながら登った。夏の山に登る楽しみは今に始まったことではなく、江戸時代に一大ブームを起こしていたのである。しかし富士山はじめ各地の名山の多くは女人禁制。これをいいことに熊さん八ッさんは冨士講にかこつけて、帰りには精進落としと称して良くない遊びをした。しかし男どもは気がとがめたのか、富士山の溶岩を持ち帰り、それを元に小山を築いた「お富士さん」が江戸の各所に出来て、富士山まで行けない老人やご婦人方はそこにお参りした。

 しかし富士登山となれば命がけだし、日数も費用もだいぶかかる。そういうこともあって爆発的な人気を呼んだのが「大山詣(大山参り)」だった。これならば大山街道(現在の国道246号線とほぼ同じ)をたどれば、往復の泊まりを入れて三、四日でお参りできる。頂上まで登っても標高一二五二米で富士山の三分の一だし、大概は山腹の下社にぬかづけば大山参りを果たしたということになっていたから、足弱でも何とかなった。

 こうして大山参りは幕末にかけて大層盛んになり、信仰心はどこかに置き忘れて、現代の吟行会のように夏山を愛で、酒食を楽しむ大衆娯楽に変容していった。大山阿夫利神社の主神はコノハナサクヤヒメのお父さんである大山祇神(オオヤマツミノカミ)だが、またの名を酒解神(サケワケノカミ)と言って、酒造、五穀豊穣の神様でもある。どんちゃん騒ぎも大目に見てくださるだろうと、お参りの帰りには平塚、藤沢方面への道をとって江ノ島で精進落としというコースも流行った。金沢八景へ出て一泊して大騒ぎ、翌日船で江戸へ戻るという豪華なプログラムもあった。まあこうした贅沢ができない庶民は、神奈川宿まで強行し、そこで精進落としの宴会を繰り広げた。

 大山参りにまつわる楽しさ、面白さは古典落語の「百人坊主(大山詣り)」に活写されている。昭和三十九年に六十六歳の若さで死んでしまった八代目三笑亭可楽という名人がいたが、この人の「百人坊主」は絶品だった。高校生だった昭和三十年頃、先輩の可楽フアンと連れだって「追っかけ」をやったが、中でも地元横浜になじみの「百人坊主」には聞き惚れた。

 神奈川宿で精進落としをやった連中が例によってのどんちゃん騒ぎの挙げ句の喧嘩騒ぎ。張本人の熊公が寝込んでしまうと、殴られた仲間たちが意趣返しだみせしめだと寄ってたかって丸坊主にしてしまい、翌早朝置いてきぼりにして江戸に立ってしまう。朝寝坊して頭がつるつるにされた上に置いてけぼりを食わされた熊さん、この野郎ってんで早駕籠を仕立てて長屋に先回り、カミさん連中を呼び集め、涙ながらに「金沢沖の突風で船が転覆、たったひとり生き残ったのも因果」と坊主になったいきさつをウソ八百こき交ぜて語り、「俺と一緒に菩提を弔おう」と長屋中のカミさんの頭を剃って尼さんを大量生産してしまう・・・という馬鹿馬鹿しい噺だが、この語り口が実に味わいがあった。これまた名人とうたわれた六代目三遊亭円生(昭和五十四年没、七十九歳)の「大山詣り」も、少々しめっぽい感じだが、やはり上手かった。

 とにかくこうして「夏の山」は、万年雪をいただく高山はさておき、里に近い、樹木がちゃんと茂っている山歩きは江戸時代中期以降、庶民に大いに近づいた。出羽三山を踏破したほどの健脚芭蕉は「夏山に足駄を拝む首途かな」と詠んだし、江戸と故郷柏原を往来し山には慣れている一茶には「夏山や一足づつに海見ゆる」という句がある。ただ、俳句を詠むような人間はどうも町歩きの方が好みらしく、山歩きの楽しさを詠んだ句はあまり出て来なかった。冨士講や大山詣りを別にすれば、木樵や猟師でもない一般庶民が用も無いのに山歩きをするような習慣がなかったせいもあろう。どうしても遠くから眺める夏山の句が多くなるのはやむを得ない。

 「夏の山」は夏山と詠まれることが多く、「万葉集」に詠まれている「青嶺」もこれに含まれ、「夏嶺」「夏山路」「夏山家」といった傍題もある。


  どんよりと夏嶺まぢかく蔬菜園     飯田 蛇笏
  夏山や吊橋かけて飛騨に入る      前田 普羅
  噴煙に己かくれて夏の山        鈴木 花簑
  夏山を統べて槍ヶ岳真青なり      水原秋櫻子
  夏山に向ひて歩く庭の内        高野 素十
  水な上みへ夏山色を重ねけり      長谷川素逝
  大仏や夏山低くめぐらせて       星野 立子
  部屋ごとに変はる瀬音や夏の山     藤森 成吉
  夏山の断崖蟹の化石秘む        岡安 迷子
  家継がぬ子が夏山をおりてくる     遊佐 光子

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