仲秋の名月や陰暦九月の「後の月(十三夜)」は詩歌の代表的素材だが、月は春、夏、冬どの季節のものもそれぞれの味を持っている。だから、ただ「月」と言えば秋の季語だが、春夏冬を頭にかぶせて盛んに和歌に詠まれ、それが俳句に受け継がれてきた。
その中でも「夏の月」が日本人に一番好かれてきたように思う。何しろ夏の日本列島は暑い。温度計の目盛りだけを言えば、日本よりもっとずっと暑い国や地域はたくさんあるけれど、日本の夏は「蒸し暑い」のだ。赤道に近い東南アジアや中南米、アフリカの北部などの夏の暑さは大変だけれど、一年中ほぼ暑さを感じているからまあある程度の覚悟は出来ている。実際そこに生まれ育つ人たちの身体は汗腺が開きっぱなしなのではないかと思うほど、涼しい顔でいる。ところが日本は温帯に位置しているから厳しい寒さの冬がある。それを越して、生暖かい春が過ぎると、やにわに湿気を帯びた猛暑が襲いかかって来る。その差が激しいから日本の夏の暑さは身に堪える。
兼好法師が徒然草の中で「家の作りやうは夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる。暑きころわろき住居は堪へ難き事なり」(第五十五段)と書いている。エアコンなど無かったつい最近までは、夏の暑さをなんとかしのごうと日本人はなるべく風通しの良い家を建てようと心がけた。兼好法師の頃はもちろん、第二次大戦前後まで数百年間日本人の健康状態はあまり良好とは言えず、体力に欠ける人が多かった。「暑気あたり」と言って、暑さに負けて病気になって死んでしまう人が少なくなかったのである。
だから夏は日が沈んで来ると、人びとは生気を取り戻すのだった。縁台などを家の前に出し、大人も子供もみんな「夕涼み」を楽しんだ。そこへ月が出ようものなら大喜びである。清少納言だって「春はあけぼの・・・。夏はよる。月の頃はさらなり。やみもなほ・・」と「枕草子」の冒頭に書いているくらいだ。
「涼し」というのは夏の季語である。本当に涼しさを感じるのは秋だから、秋の季語であるべきなのだが、夏の夜や夏の日中の日蔭に入った時の涼しさが実に印象的で、有難いものに思えるから、「涼し」は夏の季語に分類された。そこで「月涼し」という夏の季語も生まれた。このように「夏の月」は涼感、さわやかさを感じさせるものの象徴のように扱われている。
一方、夏の月の頃は夜が短い。「短夜」である。和歌から連歌の時代には「夏の月」を「短夜」とからめて詠む伝統があった。「夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月やどるらん」(「古今集」巻三、文屋深養父)のように、まだ宵の内だと思っているともう明けてしまう。これじゃ月は雲のどこに宿りを求めているのだろう(月は本来の宿である西の空に沈む間もないじゃないか)と、短夜と月の関係を面白可笑しく詠むのが称賛されたようだ。これが定型化して連歌に受け継がれる。その頃になるともう夏の月と短夜と恋をからめていたずらに技巧に走り、本来「夏の月」が持っている気持ちの良さなどはどこかへ行ってしまう。
俳句(俳諧の発句)にも「夏の月と短夜」という伝統的手法は受け継がれたが、やはりそこには夏の月が本来備えている清新なさまを素直に詠む句が徐々に作られるようになった。
初期の芭蕉の句に「夏の月御油より出て赤坂や」というのがある。この句が生まれたのは延宝四年(一六七六年)で、江戸に出て来て四年目、桃青という俳号を名乗り、当時一世風靡していた談林派の句会にせっせと出ては名を上げようと苦労していた頃の作である。「夏の月は入るのが早いものだな。御油で出たと思ったら赤坂でもう沈んじゃった」という意味だろう。御油と赤坂の間はわずか一・七キロしかなく、東海道五十三次の中で最も短い。「短夜の月」ということを大袈裟に滑稽味を利かして詠んだ、いかにも談林風の句である。これが貞享五年(一六八八年)になるとぐんと変わり、「蛸壺やはかなき夢を夏の月」(「笈の小文」「猿蓑」)となる。この頃には蕉風は確立、芭蕉は押しも押されもせぬ大宗匠。これも短夜のはかなさを詠んではいるが、一夜明ければ囚われの身となるのも知らずに蛸壺から夏の月を仰いでいるよと、滑稽も堂々としている。「御油より出て赤坂や」などと無理して作った感じが全くしない。
芭蕉に引き立てられ、諸先輩をさしおいて向井去来と共に蕉門の聖典ともなった「猿蓑」を編んだ野沢凡兆は、「市中はもののにほひや夏の月」という素晴らしい発句を詠んだ。これはもう和歌連歌からつながる妙な腐れ縁から完全に脱皮し、市井の夏の月そのものを詠い上げている。喜んだ芭蕉はこれに付けて「あつしあつしと門々の聲」と唱和し、去来が「二番草取りも果さず穂に出て」と付け、「手のひらに虱這はする花のかげ 芭蕉」「かすみうごかぬ昼のねむたさ 去来」で終わる名作三吟歌仙が生まれた。
夏の猛暑日などは夜に入っても熱気が去らず、月もなんとなく赤味を帯びて暑苦しさを感じさせることがないでもないが、まあ普通は夜が深まるにつれて白々と冴え涼味を増して来る。「月の霜」などという最近ではさっぱり用いられない季語が生まれたのも、「月涼し」同様、夏の月の気持ちの良さを愛でた証拠である。また日本列島は六月中旬から七月下旬にかけて長く鬱陶しい雨期「梅雨」になるが、それが時々中休みすることがある。そんな梅雨の晴れ間の「夏の月」も実に嬉しいものだ。
橋落ちて人岸にあり夏の月 炭 太祇
河童の恋する宿や夏の月 与謝 蕪村
町中を走る流れよ夏の月 加舎 白雄
網もるる魚の光や夏の月 高桑 闌更
なぐさみに腹を打ちけり夏の月 小林 一茶
夏の月皿の林檎の紅を失す 高浜 虚子
生き疲れただ寝る犬や夏の月 飯田 蛇笏
夏の月いま上りたるばかりかな 久保田万太郎
夏の月昇りきつたる青さかな 阿部みどり女
シテとツレ白装束に月涼し 本橋 節
仲秋の名月や陰暦九月の「後の月(十三夜)」は詩歌の代表
的素材だが、月は春、夏、冬どの季節のものもそれぞれの味を
持っている。だから、ただ「月」と言えば秋の季語だが、春夏
冬を頭にかぶせて盛んに和歌に詠まれ、それが俳句に受け継が
れてきた。
その中でも「夏の月」が日本人に一番好かれてきたように思
う。何しろ夏の日本列島は暑い。温度計の目盛りだけを言えば、
日本よりもっとずっと暑い国や地域はたくさんあるけれど、日
本の夏は「蒸し暑い」のだ。赤道に近い東南アジアや中南米、
アフリカの北部などの夏の暑さは大変だけれど、一年中ほぼ暑
さを感じているからまあある程度の覚悟は出来ている。実際そ
こに生まれ育つ人たちの身体は汗腺が開きっぱなしなのではな
いかと思うほど、涼しい顔でいる。ところが日本は温帯に位置
しているから厳しい寒さの冬がある。それを越して、生暖かい
春が過ぎると、やにわに湿気を帯びた猛暑が襲いかかって来る。
その差が激しいから日本の夏の暑さは身に堪える。
兼好法師が徒然草の中で「家の作りやうは夏をむねとすべし。
冬はいかなる所にも住まる。暑きころわろき住居は堪へ難き事
なり」(第五十五段)と書いている。エアコンなど無かったつ
い最近までは、夏の暑さをなんとかしのごうと日本人はなるべ
く風通しの良い家を建てようと心がけた。兼好法師の頃はもち
ろん、第二次大戦前後まで数百年間日本人の健康状態はあまり
良好とは言えず、体力に欠ける人が多かった。「暑気あたり」
と言って、暑さに負けて病気になって死んでしまう人が少なく
なかったのである。
だから夏は日が沈んで来ると、人びとは生気を取り戻すのだ
った。縁台などを家の前に出し、大人も子供もみんな「夕涼み」
を楽しんだ。そこへ月が出ようものなら大喜びである。清少納
言だって「春はあけぼの・・・。夏はよる。月の頃はさらなり。
やみもなほ・・」と「枕草子」の冒頭に書いているくらいだ。
「涼し」というのは夏の季語である。本当に涼しさを感じる
のは秋だから、秋の季語であるべきなのだが、夏の夜や夏の日
中の日蔭に入った時の涼しさが実に印象的で、有難いものに思
えるから、「涼し」は夏の季語に分類された。そこで「月涼し」
という夏の季語も生まれた。このように「夏の月」は涼感、さ
わやかさを感じさせるものの象徴のように扱われている。
一方、夏の月の頃は夜が短い。「短夜」である。和歌から連
歌の時代には「夏の月」を「短夜」とからめて詠む伝統があっ
た。「夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月やどる
らん」(「古今集」巻三、文屋深養父)のように、まだ宵の内
だと思っているともう明けてしまう。これじゃ月は雲のどこに
宿りを求めているのだろう(月は本来の宿である西の空に沈む
間もないじゃないか)と、短夜と月の関係を面白可笑しく詠む
のが称賛されたようだ。これが定型化して連歌に受け継がれる。
その頃になるともう夏の月と短夜と恋をからめていたずらに技
巧に走り、本来「夏の月」が持っている気持ちの良さなどはど
こかへ行ってしまう。
俳句(俳諧の発句)にも「夏の月と短夜」という伝統的手法
は受け継がれたが、やはりそこには夏の月が本来備えている清
新なさまを素直に詠む句が徐々に作られるようになった。
初期の芭蕉の句に「夏の月御油より出て赤坂や」というのが
ある。この句が生まれたのは延宝四年(一六七六年)で、江戸
に出て来て四年目、桃青という俳号を名乗り、当時一世風靡し
ていた談林派の句会にせっせと出ては名を上げようと苦労して
いた頃の作である。「夏の月は入るのが早いものだな。御油で
出たと思ったら赤坂でもう沈んじゃった」という意味だろう。
御油と赤坂の間はわずか一・七キロしかなく、東海道五十三次
の中で最も短い。「短夜の月」ということを大袈裟に滑稽味を
利かして詠んだ、いかにも談林風の句である。これが貞享五年
(一六八八年)になるとぐんと変わり、「蛸壺やはかなき夢を
夏の月」(「笈の小文」「猿蓑」)となる。この頃には蕉風は
確立、芭蕉は押しも押されもせぬ大宗匠。これも短夜のはかな
さを詠んではいるが、一夜明ければ囚われの身となるのも知ら
ずに蛸壺から夏の月を仰いでいるよと、滑稽も堂々としている。
「御油より出て赤坂や」などと無理して作った感じが全くしな
い。
芭蕉に引き立てられ、諸先輩をさしおいて向井去来と共に蕉
門の聖典ともなった「猿蓑」を編んだ野沢凡兆は、「市中はも
ののにほひや夏の月」という素晴らしい発句を詠んだ。これは
もう和歌連歌からつながる妙な腐れ縁から完全に脱皮し、市井
の夏の月そのものを詠い上げている。喜んだ芭蕉はこれに付け
て「あつしあつしと門々の聲」と唱和し、去来が「二番草取り
も果さず穂に出て」と付け、「手のひらに虱這はする花のかげ
芭蕉」「かすみうごかぬ昼のねむたさ 去来」で終わる名作
三吟歌仙が生まれた。
夏の猛暑日などは夜に入っても熱気が去らず、月もなんとな
く赤味を帯びて暑苦しさを感じさせることがないでもないが、
まあ普通は夜が深まるにつれて白々と冴え涼味を増して来る。
「月の霜」などという最近ではさっぱり用いられない季語が生
まれたのも、「月涼し」同様、夏の月の気持ちの良さを愛でた
証拠である。また日本列島は六月中旬から七月下旬にかけて長
く鬱陶しい雨期「梅雨」になるが、それが時々中休みすること
がある。そんな梅雨の晴れ間の「夏の月」も実に嬉しいものだ。
橋落ちて人岸にあり夏の月 炭 太祇
河童の恋する宿や夏の月 与謝 蕪村
町中を走る流れよ夏の月 加舎 白雄
網もるる魚の光や夏の月 高桑 闌更
なぐさみに腹を打ちけり夏の月 小林 一茶
夏の月皿の林檎の紅を失す 高浜 虚子
生き疲れただ寝る犬や夏の月 飯田 蛇笏
夏の月いま上りたるばかりかな 久保田万太郎
夏の月昇りきつたる青さかな 阿部みどり女
シテとツレ白装束に月涼し 本橋 節