気象的あるいは日常の暮らしの感覚から言うと、「夏」は6月から8月いっぱいだが、俳句では立夏(5月6日頃)から立秋(8月8日頃)の前日までが夏である。つまり俳句の世界では5、6、7月が夏で、8月も第2週はもう秋である。だから「夏の果」という季語は厳密には7月末から8月初旬ということになる。実際には猛暑の真っ盛りということも多い。というわけで、「夏の果」を用いた句には8月も末あたりの感懐を詠んだものが見受けられる(例えば夏休みが終わってしまう、というような)が、そのへんはまあ大目に見て、過ぎ行く夏のあれこれを詠めば良いのではなかろうか。
ただ、8月の声を聞くと、暑いには暑いが、雲の様子や周囲の空気に何となく秋の近づいて来る感じがする。海は波が高くなり始め、クラゲが大発生して海水浴シーズンも峠を越した気分になる。夏休みもこれからはあっと言う間に過ぎてしまう。 「夏の果」と並ぶ季語に「秋近し」(あるいは「秋隣」)がある。二つとも時期は全く同じなのだが、意味合いはかなり異なり、用いられ方も違う。
俳句でも和歌でも「秋」は春と共に最重要の季節であり、「夏」はあまり重要視されて来なかった。エアコンなどというものが存在しなかった昔は、夏は体力を消耗する過酷な季節であり、できるだけ風通しを良くした屋内でじっと耐えるより仕方がなかった。あまり詩的な雰囲気ではない。それがようやく峠を越して、待ちに待った秋がもうすぐそこに来ている、という喜びの気分を込めて、俳人は「秋近し」と詠んだ。
これに対して「夏の果」は、苦しい炎暑もようやく終りを告げる、というほっとした気分を伝える季語で、体力消耗から来る気力の萎えによって醸し出される物憂い感じも含んでいる。「秋近し」が来るべき季節への期待感を前面に押し出しているのに対して、「夏の果」は少々後ろ向きである。こうしたニュアンスの違いから、古くは「夏の果」はあまりもてはやされる季語ではなく、もっぱら「秋近し」に席を譲ってきた。
ところが現代俳句になると「夏の果」は俄然人気が出て、盛んに詠まれるようになった。電車の中まで冷房完備で、酷暑の辛さをそれほど味わうこともなくなった。それよりも、長い休暇があって、海外旅行をはじめとしたいろいろな経験ができる夏は、昔と比べるとむしろ楽しい季節になった。そうした夏の思い出にふけり、ああもうそれが終わってしまうのだなあ、という感懐を詠う季語として「夏の果」がもてはやされるようになったのである。特に若い俳人がこういう趣で使うことが多いようで、激しかった夏を惜しむという気持を込めた句を作っている。
こういう気持を詠むのに、「夏の果」の傍題である「夏終る」「夏行く」「夏惜しむ」などもしばしば使われる。もちろん、中年以上ともなれば、かなり夏バテ気分もあり、相変わらず伝統的な「夏の果」を詠む向きも少なくない。同じ時期の季語として「晩夏」もあるが、これは言葉の響きからしても「夏の果」「夏終る」と比べて断定的なニュアンスが感じられる。また少しばかり気取った感じもあり、現代俳句になって盛んに取り上げられるようになった。
夏果つる峠や茶碗伏せし棚 長谷川かな女
白波のあちらこちらや夏の果 桂 信子
ぱんぱんのひぢの黒さよ夏了はる 石橋辰之助
夏の果死仕度またわが事よ 大野 林火
東京の椎や欅や夏果てぬ 石田 波郷
夏果ての木戸や垣根や繕はず 永井東門居
本ばかり読んでゐる子の夏畢る 安住 敦
辛口のカレーに夏を惜しみけり 木倉フミヱ
てのひらに夏の終りの石ひとつ 岡部名保子
太鼓打ち襷外して夏終る 中村 英史