夏めく(なつめく)

 5月5、6日頃の立夏が過ぎて、ああ夏らしくなったなあと感じる頃合いを「夏めく」と言う。陽射しにも、気温にも、風の吹きぐあいにも夏らしさが感じられ、つややかな新緑や、人の装いからもそれが感じ取れる。

 同じ時期を言う季語には「立夏」をはじめ、{初夏」「夏浅し」「夏兆す」「薄暑」「夏の色」などがある。これらには同じような意味合いと感じが重なるところがあるが、それぞれ微妙な違いがあるようだ。「立夏」「初夏」は暦から触発される「ああ夏が来たな」という感じがある。「薄暑」はちょっとした暑さという体感を主としている。「夏の色」はあたりの景色や雰囲気がいかにも夏らしく見えるようになったという、視覚を通して夏を発見した気分が前面に出る季語のようだ。

 こうして分類吟味してゆくと、「夏浅し」「夏兆す」と「夏めく」が非常によく似ていることに気付く。この三つはどれを用いてもほぼ同じような夏の初めの気分を表す句になりそうだ。

 あえてこれら三つの違いを挙げるならば、「夏兆す」が何か特徴的な景色なり、事物なりを捉えて、それを以て夏が来たことを言い表すにふさわしい季語ではないかと思う。「夏浅し」は言葉通り、夏にはなったもののというニュアンスがある。夏景色未だ整わずといった気分である。もちろんこの両者には初夏の爽やかさ、気持良さがある。そして、「夏めく」は、こうした自然のたたずまいにも、人の様子にも夏を感じること他の二つの季語と同様だが、句を詠む人の主観的な側面、つまり気分と言うか、気の持ちようといったものが込められているようだ。「夏の気分」を自得したというところである。

 「めく」という接尾語は体言や副詞について、「そう見える」「そういう感じがはっきりする」という意味合いの動詞をつくる。その場合、実際にはそうではない、あるいは未だそうはなっていないのだが「そのように見える」ということを表すと同時に、実際にそうなったことが「感得できる」ことを表すという、二通りの使われ方をする。つまり、「まだ4月半ばだというのに若葉の茂り具合からも夏めいた感じを受ける」という使い方もできるし、「5月半ば、若葉の色も日に日に濃くなりすっかり夏めいた感じである」と言うこともできる。

 「めく」にはこの両方の意味合いがあり、はなはだややこしいが、もともと「らしく見える」という言葉なのだから、「まだ」か「もう」かを峻別出来るものではなく、目くじら立てて分ける必要もあるまい。ただし、俳句では「夏らしくなった」という既定の事実として用いられ、それ故に初夏の季語に分類されている。

 「めく」は春夏秋冬いずれにも付き、それぞれの季節になったことを実感させる季語を作る。中では「春めく」が一番嬉しさを感じさせ、季語としても力を持っているが、「夏めく」もなかなか捨てたものではない。すべてが萎えてしまいそうな猛暑はさておき、夏というのは万物生い茂り発展する躍動感がある。そういう夏が来たという喜びが「夏めく」には含まれている。


  夏めきて人顔見ゆるゆふべかな   夏目成美
  うつむけば人妻も夏めけるもの   長谷川春草
  夏めくや庭土昼の日をはじき   星野立子
  夏めくや素足の裏に庭の土   渋沢渋亭
  夜風入る灯を高く吊れば夏めきぬ   石田波郷
  夏めくや椎のかづきし雲のいろ   高橋潤
  夏めくと木椅子一つを持ち出しぬ   松林央子
  夏めくや爪つんで指軽くなる   大橋こと枝
  縞馬の流るる縞に夏兆す   原田青児
  磨く匙きらりと水に夏兆す    山下喜子

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