立秋(八月八日頃)を迎える前の十八日間が夏の土用で、鰻屋の書き入れ時だが、まさに夏も極まったなという感じの季語が「夏深し」である。「夏深む」「夏闌(なつたけなわ)」「夏闌く(なつたく)」などとも使われる。
「晩夏」や「夏の果て」と時期的には全く同じ頃の季語だが、この二つには長く暑かった夏もようやく終りだというほっとした感じ、あるいは、ぎらぎらと照りつける太陽も今となっては懐かしいといった、去りゆく夏への別れの気持が込められている。これに対して「夏深し」は、時期としては立秋直前で同じなのだが、むしろ夏が頂点を極めたということに力点の置かれた言葉である。実際、暦の上では秋だとは言っても、暑さはまだまだ八月一杯は続くから、俳句の実作上では八月八日を過ぎて「夏深し」の句が出て来て不思議ではない。
「夏深し」は「春深し」「秋深し」という大きな季語に引きずられて生れた季語であろう。「春深し」は、染井吉野がすっかり散って濃艶な八重桜が木をしならせるほど咲き匂う頃合いである。百花咲き揃い、水もすっかり温んで、まさに春風駘蕩の気分である。それが行き着くところまで行くと、春の愁いにとらわれる。そういう気分の季語として「春深し」がある。一方、「秋深し」は、十月、秋もすっかり深まって哀感極まる情趣である。芭蕉の「秋深き隣は何をする人ぞ」があまりにも有名だが、古来、和歌の時代から人々に親しまれてきた季節の言葉である。
これに対して「夏深し」は、やや中途半端な感じを抱かせる季語である。心地よい秋や春と違って、夏の真っ盛りというのは「惜しむ」という気分があまり湧いて来ない。むしろ暑さに疲れてげんなりした気分である。それならばいっそのこと、きっぱりとした響きの「晩夏」で、この季節を謳った方がすっきりするかも知れない。あるいは、立秋直前だというある種の期待感、季節の推移を鋭敏に感じ取る姿勢の、「秋近し」を詠んだ方が面白い。そんなことを考える人たちが多いせいだろうか、近ごろは「夏深し」を詠む人が少なく、歳時記によっては「晩夏」の傍題として片隅に押し込めている。
ただし、エアコンの行き渡った昨今は、夏というものがさほど苦痛な季節では無くなっている。むしろ夏休みなどもあって、若い人たちにとっては嬉しい季節である。年寄りだって昔に比べれば体力のある人が多いから、せっせと旅行などに出かける。老若それぞれが、それなりの夏を謳歌するようになっている。思い出をたくさん積み重ねることにもなるだろう。そんなことを考えると、夏もピークを迎えたという感懐の季語として「夏深し」あるいは「夏たけなは」がもう少し詠まれていいようにも思う。
うすもやをこめて菜園夏深む 飯田 蛇笏
夏深く山気歯にしむ小径かな 室生 犀星
夏深きねくたれ髪を見られけり 日野 草城
死病とは思ひ思はず夏深む 相馬 遷子
手の甲のしみ一つふえ夏深む 勝又 一透
夏闌けて硯やすらふ水の中 宇佐美魚目
一本のペンが懐剣や夏深く 三橋 鷹女
夏ふかく何の蕊降る熊野径 山崎 秋穂