水馬(みずすまし、あめんぼ)

 「水澄まし」という昆虫には2種類ある。まず生物分類学で言うミズスマシは、黒豆のような光沢のある甲虫で鞘翅目ミズスマシ科。池や流れのゆるやかな小川の水面をくるくるくるくる忙しく回っている昆虫のことである。体長六、七ミリで、驚くと素早く水中に潜る。潜る時に尻に水玉をひとつつけている。上下に分れた複眼を持っており、水中と水上を同時に見ることができる器用な虫である。水面を踊り狂うように見えるので「まひまひ」とも呼ばれる。

 もう一つのミズスマシは「あめんぼう」とも呼ばれ、長い足で水面を滑るように走ったり跳ねたりする虫である。半翅目アメンボ科の昆虫。捉まえると飴のような匂いがするので「飴ん坊」と言われるようになったとの説がある。極めて軽い体重で、糸のように細く長い足の先に細かな毛が生えて水をはじくようになっており、水の表面張力を利用して浮き、水面滑走ができる。

 しかし、いくらアメンボが軽いと言っても、なにがしかの体重はあるわけで、水の表面張力が減少すれば、いつまでも浮いてはいられないはずである。そう考えたある生物研究者が、石鹸を溶かした水を張った桶にアメンボを放った。じっと観察していると果たせるかな、アメンボは盛んに足で石鹸水の水面を掻いているうちに沈みはじめ、ついに溺れてしまったという話がある。

 とにかく形は全く違う虫なのに、ミズスマシとアメンボはずっと混同されてきた。両方とも出現する時期が春から秋にかけてであり、活動場所も同じ、どちらも忍者のような身のこなしである。飛ぶこともできるから、雨上がりの後の空地の水溜まりなどに忽然と姿を現し、びっくりさせられる。これでは間違えられるのも無理はない。

 関東では甲虫の方をミズスマシと言い、関西地方ではアメンボをミズスマシと言う、と言われているが、関東地方でも人によっては、この蜘蛛のような形の方をミズスマシと呼んでいる。明治から大正前半に活躍した大須賀乙字という俳人に『みずすましひょんひょんはねて別れけり』という句がある。明治35、6年頃、第二高等学校の卒業式(当時の高校では6月末から7月に卒業式が行われた)で詠んだ惜別の句である。乙字という人は福島生れで仙台一中から二高に進んだ人である。にもかかわらずアメンボをミズスマシと詠んでいるから、アメンボをミズスマシと呼ぶのは関西、と決めつけることもできない。

 『静まれば流るる脚やみづすまし 太祇』とか、『山水のすむが上をも水馬 一茶』など、江戸時代の俳諧でミズスマシと言えばおおむねアメンボである。そして、生物学上の正式のミズスマシは「まひまひ」と呼ばれている。「水馬」と書いて「みずすまし」と読ませる場合は例外無くアメンボを指している。

 性急に結論を出すわけにはいかないが、学術的には正しくないとしても、俳句では伝統に従って「水馬(みずすまし)はアメンボ」としておくのが無難で、本家のミズスマシは「まひまひ(まいまい)」という俗語で我慢してもらうより仕方がないようである。

 このように長い間、人によって違う虫が思い描かれてきたミズスマシだが、両者に共通するのは、実に軽快で涼しさを感じさせる虫だということである。


(アメンボのミズスマシ、水馬の句)
  夕暮の小雨に似たり水すまし   正岡子規
  水馬かさなり合うて流れけり   内藤鳴雪
  松風にはらはらととぶ水馬   高浜虚子
  水すまし水に跳ねて水鉄の如し   村上鬼城
  水路にも横丁あって水馬   滝春一
  打ちあけしあとの淋しき水馬   阿部みどり女
  陽が恋し吹かれ集るあめんぼう   沢木欣一
  八方に敵あるごとく水すまし   北山河
  流さるる快楽といふをあめんぼう   大山雅由
  あめんぼの輪より雨の輪増えて来し   西村和子


(甲虫のミズスマシ、まひまひの句)
  まひまひや雨後の円光とりもどし   川端茅舎
  まひまひの小さき渦巻月のそば   高野素十
  しろがねの水くろがねの水すまし   西本一都
  風浪に描く輪小さき水すまし   篠田悌二郎
  まひまひや父なき我に何を描く   角川源義

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