八百万神(やおよろずのかみ)と言うが、古代日本人はあらゆるものに神が宿ると考えていた。山川草木、鳥獣虫魚に始って雨、風、地震、雷などの自然現象に至るまで、神の宿らざるもの無く、良い事、悪い事が起るたびに、それを神様のせいにして、感謝したり、恐れおののいてあやまったり、なだめたり、お願いしたりしてきた。それは連綿と今日まで続いている。「祭り」はそういう祈りを期日を定めて集団で行うものである。
我家の前に小さな公園があり、その隅にお地蔵さんの祠がある。この地蔵さんは近くを流れていた小川から引き上げられたものである。その小川の向こう岸の商店街のはずれに、戦前から昭和30年代初めまで染物工場があり、この地蔵さんはどうやらその工場の庭に祀られていたものらしい。朝鮮戦争が終って不景気になり、小規模の捺染工場は立ちゆかなくなって、潰れた。建物を壊してサラ地にする際、どさくさまぎれに地蔵さんは川流れになってしまった。
工場跡地は横浜市のものとなり、地域福祉の一環として公園にする計画が打出された。ところが商店街のおやじさんたちはその土地の利用価値が高いと踏んだのであろうか、「地元有志による民需転用」を唱えて払い下げを画策した。それでは公園をどこに作るのか。おやじさんたちは、小川を越えた所にある当時は空地だった我家の敷地の一部に目をつけ、そこを市に買い上げさせて作ればいいということになった。
そんないきさつで買い上げられるのだから、高く買ってくれるはずがない。両親も困惑したようだが、毎晩のように元駐在巡査のおっさんを先頭に、蕎麦屋、八百屋、寿司屋の親爺などが取り換え引き換えやって来ては「地域発展のために」と亡父を説得した。当時の我が家は家業の横浜ガーデンなる園芸会社が空襲で壊滅、破産状態にあったから、当面利用するあての無い土地が少しでも金に換わればとの思いもあったようである。そうやって商店街の小ボスたちの悪だくみは成就した。
こうして松本小公園が生まれて間もなく大きな台風が襲来、濁流がおさまった後の川底にひょっこり地蔵さんの頭が現れた。こりゃどうしようと商店街の親爺さんたちは頭を抱えた。信心とはほど遠い連中だが、当時は珍しかったテレビのある寿司屋に集まって、力道山のプロレス中継なぞ見ながら鳩首協議したのだろう、小公園の片隅に祠を造って納めた。
それから半世紀。駐在巡査も八百屋の親爺も死んでしまった。小川はバブル最盛期に近所の市会議員の票集め目当てで埋立てられ、遊歩道になってしまった。染物工場から出たものらしいということで、「愛染地蔵尊」というずいぶん上っ調子な名前をつけられたお地蔵さんだが、その由来を知る人もほとんどいなくなった。
ところがである。平成も10年を過ぎた頃から、このお地蔵さんの人気がとみに上った。特別のことがあったわけでもないのに、お賽銭を上げてお参りする人が増えて来たのである。それも娘さんや赤ん坊を抱えた若いお母さんたちがお線香を上げたりしている。
この辺は昭和のはじめ頃ぼつぼつ開け始めた土地で、敗戦直後から住宅が本格的に建ち始めた。今やその第1世代が死んで、第2世代による分割相続や相続税問題で土地が細分化され、アパート、マンションが建ち並び、ドールハウスのような小さな家が密集するようになった。流入人口が激増し、見知らぬ若いカップルがむやみに目につくようになった。そういう若夫婦やアパート住いの若者たちが面白半分なのかどうか、通りすがりに愛染地蔵尊に賽銭を上げて鈴をガラガラと鳴らして行くのである。
その昔の小悪党の生き残りである寿司屋の親爺も、今やすっかりいい顔つきの隠居さんで、喜々として愛染地蔵のお守りをしている。「ご苦労さんです。精がでるねえ」「いやいや、御利益あらたかだよゥ。人気があるんだから」。
10円、20円の賽銭でも塵も積もればで結構な金額になるらしい。ついに、近隣の子供たちを集めてお菓子を配る行事をやるようになった。堂守爺さん大張り切りで、公園にテントを張り、商店街の2世、3世を集めて指揮をとっている。こんなにいたのかと思うほど大勢の赤ん坊や幼児の手を引いた若いお母さんやお婆さんが集まってきた。みんな大喜びで振る舞われた赤飯やお菓子を頬張っている。「祭り」の誕生である。
お祭りとは概ねこのような発生の仕方をするようである。お祭りを繰り返しているうちに、具体的な御利益話や縁起ができて来る。別にけなす意図など毛頭無いのだが、江戸三大祭りの一つと持囃され100万人以上の客を集める浅草・三社祭だって、隅田川で網を打っていて観音様を拾った漁師の兄弟と、それを祀るための祠を造った地元の親分の3人を祀った神社のお祭りである。もっとも時代はぐんと古く、今から1400年も前、推古天皇の御代の話だから、有り難さにも厚みがついている。
品川の鮫洲神社も似たような発祥である。こちらは浅草よりはかなり後の鎌倉時代、執権北条時頼の建長3年(1251年)、品川沖で漁師の網に大きな鮫がかかり、腹を裂くと木造の観音様が現れた。時頼が直々に建長寺の僧を派遣して、その観音様を本尊とする海晏寺を建立、以後この近辺には怪魚の出没することもなく、海上もすっかり穏やかになったという。品川は東海道の江戸への入口。江戸時代から昭和も第二次大戦後しばらくまでは遊廓が残って大いに賑わい、鮫洲神社にも参詣人が引きも切らなかったが、今では極めて静か。そのお祭りもぐっと大人しく上品になっている。
話が東京の祭りに偏ってしまったが、もともと「祭」という季語は京都の賀茂祭(葵祭)から出ている。
夏は疫病、虫害、風水害が起りがちで、その背後にはいわゆる疫病神がついているわけであり、その蠢動を抑えるには強力な親分格の神様にすがらなければならない。となると、そうした大神様はだいたい京都に鎮座まします。賀茂神社であり、八坂、北野、石清水などである。そういった横綱格の神社の祭りが末社を通じて全国津々浦々に広まってゆき、土地土地の土着の神様とも結びついて、「豊年満作」「一家安穏」などを祈願する夏祭りになっていった。
単に農耕神のお祭りならば収穫が済んで農民の手が空く時季に行う「秋祭」が主流になるはずである。しかし、ご本社の祭りが夏に行われるし、自然災害や病虫害を避けるお祈りとしての祭りは夏場にやってこそ意味がある。ということから夏が祭りシーズンということになった。そして俳句でも祭りと云えば夏祭を指すことになり、春のものは「春祭」、秋に行われるのは「秋祭」と頭に季節をつけることになっている。
江戸時代の俳句も近代俳句も、「祭」の句には酒、料理、笛太鼓などのお囃子、そして子供をうたったものが目につく。ゲーム機にもテレビにも無縁で、遊び場所も方々にあるわけではなかった時代には、年間最大のお楽しみイベントは「祭」であった。子どもたちは無論のこと、大人だって飲んだり食べたりにぎやかに騒いで、お囃子に浮かれるのが当然である。
酔ひ臥して一村起きぬ祭かな 炭太祇
神田川祭の中をながれけり 久保田万太郎
祭見にあひると亭主置いてゆく 文挟夫佐恵
鯖ずしのつめたかりける祭かな 日野草城
路地に生れ路地に育ちし祭髪 菖蒲あや
ふるさとの波音高き祭かな 鈴木真砂女
昨年よりも老いて祭の中通る 能村登四郎
山車通りすぎたるあとの人通り 清崎敏郎
序の調べ静かに祭囃子かな 浅賀魚水
一合の米磨ぐ祭太鼓かな 片山依子