金魚(きんぎょ)

 フナを改良して観賞用に固定したもので、中国が原産。晋代(西暦265年─420)に赤いフナが発見されたのがそもそもの初めだと言われている。突然変異で赤いフナができたのを大事に育て、卵から孵った稚魚を選別飼育して固定していったのであろう。宋時代(960年─1279)には宮廷貴族などを中心に金魚が盛んに飼われていたというから、歴史はずいぶん古い。

 日本には室町時代に輸入された。3代将軍足利義満は「日本国王臣源」と名乗って明帝国に臣従する形で日明貿易を始め、大儲けした。明からの輸入品は銅銭、生糸、絹織物、薬種などをはじめ、書画や珍しい食べ物、機械器具などさまざまで、その中には金魚も含まれていた。花の御所を中心に貴族の間で金魚飼育が流行したらしい。

 だが金魚が一般にも広まったのは江戸時代になってからのことで、井原西鶴(寛永19─元禄6年、1642─93)の死後に出版された「西鶴置土産」に江戸下谷の金魚屋真鍮屋市右衛門の話が出て来る。庭に広い養殖池があり、金魚を入れた舟(底が金網の簀の子になっている木箱で、水面に半分浮くようになっており、中に種類や大小で分けた金魚が入れてある)が7、80もあるというからずいぶん大規模な金魚屋である。1匹7両もする大名の若様向けの金魚がいるかと思えば、それに食わせるボーフラを丸一日かけて収穫してようやく25文を手にする男がいるという西鶴独特の話である。

 武士をからかうのに「サンピン」という言葉があるが、これは年俸が「三両一人扶持」の最下級の御家人のことで、今日の貨幣に換算することは難しいが、まあ中学や高校を卒業したての労働者の年間収入というところだろうか。最高の金魚が7両ということは最下級とは言え武士二人分の年俸に匹敵する。

 7両の金魚は特別として、当然安いものもあったわけで、この頃から上流階級だけでなく中流の町人にも手が届くペットになっていったらしい。さらにそれから約半世紀後の18世紀半ばには「金魚養玩草(きんぎょそだてぐさ)」という金魚飼育本が出版されるほどのブームが訪れた。そして19世紀に入ると江戸の町には天秤棒で桶を担いで「金魚エー、キンギョ」と触れ歩く金魚売りが現れるようになり、これが明治大正昭和へと受け継がれていった。

 もともとの金魚は鮒の姿を残している和金だろうが、千年もかけて改良に改良を重ねられたものだから、千変万化の姿形や色彩が現れた。和金でも最も素朴なのは尾鰭が垂直で上下二つに切れ込みがあるだけだが、これが三つに分れたものが生まれ、四つのものも出来た。色も赤だけではない。紅色、真っ黒、紅白絞り、黒赤白の朱文金とさまざま生まれた。さらに三つ尾の和金が太ってしまった琉金、琉金の頭に瘤ができてしまったオランダシシガシラ、頭にコブコブができた上に背びれが無くなってしまったランチュウ、顔の両側に目玉が突き出た出目金など、いずれもよく眺めれば奇形である。極め付きは頂天眼。これは体形は琉金やランチュウに似てころっとしており、出目金のように目玉が飛び出している。しかし出目金と異なるのは、その名の通り目玉が天上に向って突き出しているところである。清朝宮廷、昼なお暗い紫禁城の奥で長年飼われている間に光りを求めて目玉が上へ上へとせり上がってしまったという話があるが、嘘かホントか分からない。こういったゲテモノというか新品種が江戸後期から明治期に中国から次々に入って来て、日本でさらに優良品種として固定され、欧米に広まっていった。

 江戸時代には既に金魚はかなり普及したペットになっていたのだが、今日のようにガラス鉢や四方が透明な水槽で飼われていたのではなく、木桶や瀬戸物の鉢に入れていた。大名や貴族がギヤマンの壺に金魚を入れて楽しんだ例が無いでもない。また、幕末から明治初期、群馬から横浜に出て生糸貿易で巨利を得た中居屋重兵衛という豪商が、横浜本町通りの豪邸の応接間の天井をガラス張りの水槽にして金魚を泳がせたという話が伝わっている。しかし、そういうのはあくまでも例外で、金魚はもっぱら背中ばかり鑑賞されていたのである。

 明治時代になってガラスが普及するにつれ金魚玉と呼ばれる球形のガラス製金魚鉢が売られるようになり、これを網袋に入れて軒に吊し、金魚は横からも下からも眺められるようになった。さらにこれにひらひらと青い縁のついた朝顔型金魚鉢も作られるようになり、金魚の美しさが一層際立つようになって、ますます人気が高まり完全に大衆化した。お祭りの夜店には金魚すくいが無くてはならないものになり、現在の江東区、江戸川区、葛飾区一帯のいわゆる川向こうには養殖池を備えた金魚屋がたくさんできた。

 このように金魚は江戸時代中期以降かなり大衆化していたのだから、俳諧をたしなむほどの人ならば、夏場に2、3尾泳がせていて不思議はないのだが、どういうわけかほとんど句材にされていない。もちろん季語にもなっておらず、馬琴の「俳諧歳時記栞草」を見ても載っていない。水草の間を泳ぐ金魚を眺めながら涼んでいる美女とくれば浮世絵の格好の題材だが、俳諧師が目に留めないとはどうしたことであろう。あまりにも鮮やかすぎる金魚は俳諧には馴染みにくかったのであろうか。明治になって河東碧梧桐の「しだり尾の錦ぞ動く金魚かな」、巖谷小波の「堂前やいつもの爺の金魚売る」あたりから本格的な夏の季語として取り立てられるようになった。


  縁ばかりまはる金魚は尾切れかな   河東碧梧桐
  いつ死ぬる金魚と知らず美しき   高浜虚子
  水更へて金魚目さむるばかりなり   五百木瓢亭
  少し病む児に金魚買うてやる   尾崎放哉
  金魚池渾天映りゐたりけり   山口誓子
  女だちおしゃべり金魚浮き沈み   山口青邨
  あるときの我をよぎれる金魚かな   中村汀女
  生き物は飼はぬつもりの金魚の死   石毛幸恵
  金魚田に色浮き立ちて雨兆す   村田脩
  江戸川や金魚もかかる仕掛網   依光陽子

閉じる