小説家芥川龍之介の忌日。7月24日。芥川は明治25年3月1日、東京・京橋入船町で新原敏三の長男として生れた。辰年辰の月、辰の日、辰の刻に生れたので「龍之介」と命名された。3月ならば子丑寅……で、寅之介になりそうなものだが、漢時代に正月は寅の月と定められ、以下、二月は卯、三月は辰の月となった。日本の暦はそれを踏襲したもので、龍之介が生れた明治半ばにはまだ旧暦の暦が日常に深く食い込んでいたのである。
それはとにかく、龍之介の父親は山口県出身で、東京で当時消費が大いに伸びていた牛乳生産を手がけ、新宿2丁目、日暮里中本、王子西ヶ原に乳牛牧場を開いて大成功した。事業は順調、長男も生れてめでたしめでたしというところだったのだが、龍之介が生れて9ヶ月たった頃、母親のふくが発狂してしまった。
実母は生ける屍といった状態で龍之介が10歳になるまで生きていた。龍之介は母親の姉フキに育てられ、芥川家に子が無かったこともあり、12歳で実母やフキの兄である芥川道章(当時東京府土木課長)の養子になった。生家でも養家でも何不自由なく大事に育てられ、府立三中から一高、東大英文科と順調に進んだのだが、精神を病んだ実母の姿が心に焼き付いて、その遺伝的恐怖心にとらわれていた節がある。昭和2年7月24日、36歳で自殺したのも、理由はいろいろ取り沙汰されているが、やはり実母の病気が自分にもという恐怖の念が底流としてあったのではないか。何か行き詰まった時、龍之介の脳裡には必ずこのことがよぎったようだ。
「僕等人間は一事件の為に容易に自殺などするものではない。僕は過去の生活の総決算の為に自殺するのである」で始る「遺書」は、あの精緻な、「珠玉」という言葉がまさにふさわしい作品を残した作家が書いたとは到底思えない、支離滅裂な文脈だが、その中に「けれども今になって見ると、畢竟気違ひの子だったのであらう」という一文が唐突に出て来る。また「わが子等に」とした箇条書の遺書の第7には「汝等は皆汝等の父の如く神経質なるを免れざるべし。殊にその事実に注意せよ」とある。 龍之介は小説や箴言であまりにも有名であり、今でも多くのフアンを持っているが、俳句の方もなかなかのものである。短編小説「鼻」を夏目漱石に褒められて、一躍文壇デビューを果し、以来、漱石山房に出入りするようになった。その関係で高浜虚子に俳句の指導を受けることになったという。
俳号を「我鬼」という。「餓鬼」なのか、それとも、俳句では洟垂れ小僧ですという龍之介一流の諧謔で「ガキ」とつけたのか、由来はわからない。それはとにかく、我鬼の俳句は虚子とはだいぶ違う。「草の家の柱半ばに春日かな」「初秋の蝗つかめば柔らかき」「しぐるるや堀江の茶屋に客ひとり」というようなオーソドックスな句があるかと思えば、「青蛙おのれもペンキぬりたてか」「蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな」といったルナールばりのウイットに富んだ作品もある。「傾城の白き絵踏かな」という、そのまま短編小説になりそうな句もあれば、「木の枝の瓦にさはる暑さかな」「葛水やコップを出づる匙の丈」というような神経過敏症さながらの句もある。「水涕や鼻の先だけ暮れ残る」とか「燭台や小さん鍋焼仕る」といった洒脱な句も作っている。そして「木がらしや目刺にのこる海の色」に止めをさす。芥川龍之介の俳句の本道はどれなのか。誰もが決めかねるほど多彩である。多分、小説でもそうだったように、俳句でもいろいろな方法論を立てては作っていたのではないか。そして、その実験途中で死んでしまったのではなかろうか。
俳号から「我鬼忌」とも言い、日ごろ河童の絵を好んで描き、また晩年に「河童」という作品を残したことから「河童忌」とされるようになった。
芥川龍之介仏大暑かな 久保田万太郎
河童忌やあまたの食器石に干す 飯田蛇笏
河童忌の庭石暗き雨夜かな 内田百間
河童忌や水の乱せし己が影 石川桂郎
河童忌や表紙の紺も手ずれけり 小島政二郎
河童忌の雨垂れ水に水すまし 百合山羽公
塩壺の吐きし我鬼忌の蚊なりけり 飴山実
河童忌や一生徒のみ肯はず 兼安昭子