青田(あおた)

 田植が終りしばらくして、すっかり根づいた苗がすくすくと伸び、田一面を鮮やかな緑に染め尽した様子を言う季語である。

 江戸時代は今と比べて平均気温が低く、それに稲の品種改良も進んでいなかったから生育が遅く、「青田」の時期は土用の前後とされていた。それが尾を引いて、今日出回っている歳時記も青田を晩夏の季語としている。しかし温暖化の今日、稲の成長が早まり関東地方では6月半ばには田圃は青々とする。だから、無理に晩夏の季語と決めつけることはないだろう。

 とにかく稲穂が出る前まで、6月から7月頃の田園風景と受け取ればよいのではないか。梅雨の晴れ間の真っ青に晴れ上がった空の下、あるいは梅雨明けの真夏日、みずみずしい稲田の上を吹き渡る風はことのほか爽やかで涼しく感じる。ということで、俳諧の時代から青田を吹く風は句材として好まれ、盛んに詠まれた。

 芭蕉の晩年の弟子の惟然に「朝起の顔ふきさます青田かな」という句がある。惟然は「俳諧の狂者」と呼ばれていたらしく、漂白の人生を送った人物で、かなり勝手気侭な日々を送っていたようだ。この句も二日酔かなにかでぼーっとした顔に青田を渡る風が吹きすぎてしゃっきりしたことよ、といった意味であろう。飯田龍太は「『顔ふきさます』が、風の描出を省いて一気に青田にかかるところが面白い。間髪を入れない感覚的な把握である」と評している。

 1700年代後半の俳諧中興期を担った加舎白雄は、「傘さしてふかれに出でし青田かな」と詠んでいる。雨が降ってはいるが、青々とした田面を撫でるように吹く風が気持良さそうなので傘をさして表に出た。我ながら酔狂なことよと独り笑いしている様子がうかがえる面白い句である。しかしこれも当時既に「青田を吹く風」を重んじる伝統が定着していたからこそ、白雄もわざわざ雨の中を青田見物に出て行ったのであろう。

 白雄より30年ほど若い小林一茶にも、「背戸の不二青田の風の吹過ぎる」がある。これはストレートに青田の風を愛でている。このように「青田」とその上を吹き渡る「風」は付き物のようになり、「青田風」という季語が生れた。さらに、青田の上を風が吹くと、若い稲が一斉に波打つようにそよぎ、やや白っぽい葉裏を見せながら風が通りすぎて行くにつれて波紋を描く。この視覚的に爽やかさを感じる情景を表わす「青田波」「青田面(あおたのも)」という季語もある。

 コメは日本人の命綱ということで、有史以来、為政者は稲の栽培から米の流通段階に至るまで法律で縛り、厳重に管理して来た。今日でも「農地法」や「主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律」(1995年、食管法を改定して施行。略称「新食糧法」)といった法律があり、田圃を勝手につぶして住宅地に変えたりすることはできない。

 「時代遅れの悪法」などという声もあるが、日本の田舎の風景が大変わりした昨今も、こうした法律のおかげで田圃だけはたくさん残っている。東京近辺でもちょっと郊外に足を伸ばせば青田風に吹かれることができる。

 青田という季語には、すくすくと伸びる稲が一面に広がる光景が生み出す「清々しさ」「すこやかさ」「清新」といった感じがある。そして、やがてそれがもたらす実り、豊穰への期待感が作用して、豊かで伸び伸びするような気分も加わる。

 この青田が伸び切ってそろそろ穂が出ようかという頃合い、つまり夏の盛りは昔の農家には一番辛い時期であった。麦の収穫が終って一息つける裕福な農家はさておき、貧農では自家消費のコメはおろか、食うものに事欠く始末ということになる。そこに米商人が現れ、青田の伸び具合をにらんで秋の収穫量をはじき安値で先買いする。これが「青田買」であり、農家側から言えば「青田売」である。「青田」という季語の持つ気持ち良さとは正反対だが、今では「青田売」をしなければならない農家など皆無で、この季語はほとんど廃れてしまった。


  宙をふむ人や青田の水車   正岡子規
  青田貫く一本の道月照らす   臼田亜浪
  日の落ちしあとのあかるき青田かな   久保田万太郎
  一点の偽りもなく青田あり   山口誓子
  せんすべもなくてわらへり青田売   加藤楸邨
  虹の中人歩きくる青田かな   松本たかし
  書きだめて手紙ふところ青田道   石橋秀野
  空と山画然として青田風   原コウ子
  八方へゆきたし青田の中に立つ   橋本多佳子
  木曾長良揖斐越えて吹く青田風   松崎鉄之介

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